京都御苑の「七不思議」

京都御苑の不思議は不思議と言えるかどうか甚だ不思議なのだが、ここにも七つの不思議がある。
1.猿ケ辻/2.祐井/3.糸桜/4.縣井/5.御車返しの桜/6.蛤御門/7.桜松である。


猿ケ辻

猿ケ辻 京都御苑の北、今出川御門から入ると朔平門にあたる。
朔平門に沿って東に行くと、北東角に切り取ったような築地塀があり、「猿ケ辻」と呼ばれる。
駒札には、
『御所の築地塀が折曲った部分の屋根裏に、一匹の木彫りの猿が見られます。
烏帽子をかぶり御幣をかついだこの猿は、御所の鬼門を守る日吉山王神社の使者ですが、夜になると付近をうろつき、いたずらをしたため、金網を張って閉じ込められたといわれています。
開国派とその反対派がせめぎあう幕末さなかの文久3年(1863)5月、公家で攘夷派の急先鋒の一人であった姉小路公知(きんとも)がこの付近で殺されたと伝えられています。(猿ケ辻の変)』

出典:【猿ケ辻の駒札】より

古くは「つくばいの辻」と言われたらしいが、つくばいの辻とは、夜更けにここを通りかかると、自我喪失し、道に迷いつくばって(うずくまって、しゃがんで)しまうことから、その名が付いたとされるのだが、今は、網の中の猿にちなんで「猿ケ辻」と呼ばれている。


祐 井

祐井 猿ケ辻の北側に黒い塀に囲われた一角があるのだが、ここが幕末の公家・権大納言中山忠能(ただやす)の屋敷があった場所である。
中山邸は、明治天皇が4才まで養育された所で「明治天皇誕生の地」の標柱が立っている。
その右には「祐井(さちのい)」の井戸がある。
明治天皇は嘉永5年(1852)11月3日に孝明天皇の第2皇子として、中山邸で生まれる。
(旧暦では9月22日:余談だが、戦前には11月3日は「明治節」とよばれる休日であった。因みに、新年節(1月1日:元日)、紀元節(2月11日:神武天皇即位の日)、天長節(4月29日:昭和天皇の誕生日)とともに四大節という。)
生母は権大納言・中山忠能(ただやす)の娘慶子(よしこ)で、幼名を祐宮(さちのみや)、諱(いみな)を睦仁(むつひと)といった。
祐宮が産湯を使った井戸は、祐宮2才の嘉永6年の夏、京都はひどい日照りで、中山家の総ての井戸が枯れてしまったので、新しい井戸を掘ると清らかな水が湧きだしたという。
孝明天皇はこれをおおいに喜び、井戸を祐宮に因み孝「祐井」と名付けられた。


糸桜(近衛桜)

糸桜 近衛家の屋敷は京都御苑の最も北にあり、今出川御門を入り右側の辺りにあったようである。
その近衛邸跡に枝垂桜の大木が多く植えられている。
京都御苑の中で一番早く、3月中旬には咲き始め、桜の種類も多く4月にかけて桜の花を楽しむことが出来る。
その中でも近衛池近くの桜は「近衛の糸桜」と呼ばれ、江戸時代から有名だったようである。
謡曲「西行桜」に一説に、桜の老木の精と西行が桜の美しさについて、
「九重に、咲けども花の八重桜、いく代の春を重ぬらん。
しかるに、花の名高きは、まづ初花を急ぐなる、近衛殿の糸桜。見渡せば柳桜をこきまぜ て、都は春の錦、燦爛(さんらん)たり。
千本(ちもと)の桜を植え置き、その色を所の名に見する、千本(せんぼん)の花盛り、雲路の雪に残るらん。」

と近衛邸の糸桜の名が出て来るのだが、この桜は御苑にあった糸桜ではなく、近衛家創建当初の、現在、同志社新町キャンパスのある辺りに近衛家の屋敷があり、そこに植えられていた糸桜(枝垂桜)のようである。
糸桜を詠んだ和歌で、安政2年(1855)2月に、高邁天皇が詠んだ、
「昔より名には聞けども今日見ればむべ目かれせぬ糸桜かな」という歌がある。
(昔から聞いてはいたが、今日見ると目も離すことが出来ないほどに美しい桜である)と、孝明天皇も近衛家の糸桜を見て、その美しさに感動したのであろう。
この時の桜は、御苑の北に近衛家が移った後の桜であろうと想像に難くない。現在の7桜は昭和10年に移植されたもので、孝明天皇が愛でた桜ではない。


縣 井

縣井 乾御門と中立売御門の中間、宮内庁京都事務所の西隣に「縣井」と呼ばれる井戸がある。
そばの駒札には、
『昔この井戸のそばに縣宮という社があり、地方官吏として出世を願う者は、井戸の水で身をを清めて祈願し、宮中にのぼったといいます。
この付近は江戸時代まで五摂家の一つ一条家の屋敷地内となっており、井戸水は、明治天皇の皇后となった一条美子のうぶ湯に用いられたともいわれています。
大和物語では病気を治す水とも紹介され、井戸と辺りの山吹の風情は、後鳥羽院などの歌にも詠まれました。』

出典:【縣井の駒札】より

後鳥羽院は「蛙鳴く 県の井戸に 春暮れて 咲くやしぬらん 山吹の花」と詠んでいる。
この辺りには一条家の屋敷があった所で、一条家の三女として生まれた一条美子(いちじょうはるこ:明治天皇の皇后)、が、その時にこの井戸の水を産湯として使ったという。
梨木神社の「染井」と堀川五条の「左女牛井(さめがい)」とともに、京の三名水と呼ばれている。
大和物語には、「鎌倉時代の公家・橘公平(きんひら)が悪病にかかった時に、縣井の水を飲み観音経を唱えて病気平癒を願ったところ、如意輪観音が現われ「この井の水を飲む者、必ずや病気が癒えるであろう」と告げられ、公平の病が治ったという。」
また枕草子にも、家は・・・という下りで、「家は 近衛の御門。二条みかゐ。一条もよし。染殿の宮。せかい院。菅原の院。冷泉院。閑院。朱雀院。小野の宮。紅梅。縣の井戸。竹三条。小八条。小一条。」と述べられている。
残念ながら現在は井戸は枯れてしまい、水を飲むことも井戸の中を見ることも出来ない。


御車返しの桜

御車返しの桜 京都御苑には桜の咲く季節になると、色々な場所で桜の花を見ることが出来る。
その一つが、中立売御門から京都御所に向かう左側に「御車返しの桜」がある。
この桜は、後水尾天皇があまりの美しさに牛車を返して眺めたという桜である。
花の咲かない時期には何の変哲もないので見過ごしてしまうのだが、今度春になり、どんな桜花を咲かせるのか見てみたいような気がする。
説明文には、
『「車返桜」は、サトザクラの一品種の「御所御車返し」で、よく混同される「御車返し」は「桐ケ谷」とも言われる別品種です。
車返桜は、後水尾天皇が外出された時に、あまりの美しさに御車を返され観賞されたことから、この名が付けられたとされています。』

出典:【車返桜の説明板】より


蛤御門

蛤御門 京都御苑西側のほぼ真ん中位にあるのが蛤御門である。
蛤御門は、本来は新在家御門と言われていた高麗門型の筋鉄門である。
この門は新在家門といわれていたが、江戸時代の大火で、それまで開かなかったものが開けられた為に、焼けて口を開く蛤のような門と言われるようになり、いつしか蛤御門と呼ばれるようになった。
新在家御門を開かせた江戸の大火は二説があり、
ひとつは、宝永5年(1708)に御所を含め、417町、1万3,000軒が焼失した「宝永の大火」
そしてもう一つは、その80年後の天明8年(1788)に、二条城や御所など1,400町、3万7,000軒が焼失した「天明の大火」である。
どちらの説も有力で、いまだにどちらの大火によってこの御門が開いたのか分からないのである。
蛤御門の梁や門扉には、鉄砲の弾痕の跡が残っている。これは元治元年(1864)にこの門の辺りで、長州藩と御所を護衛する幕府軍との間で「禁門の変」と云われる激戦が行われた為である。
禁門の変とは禁裏の御門で起きた戦ということで、御苑の門を挟んで長州藩と幕府連合軍が戦った戦で、特にこの蛤御門での戦が激しかったことから「蛤御門の変」とも呼ばれている。


桜 松

桜松 御所の建春門の前「学習院跡」に、松の倒木から桜の木が生えた「桜松」がある。
『この倒れた木は「桜松」と呼ばれ親しまれています。桜松は、クロマツの樹上十数メートルの所にヤマザクラが生育していたものです。
平成8年4月17日にマツが枯れ倒れてしまいましたが、サクラはマツの空洞を通り地上まで根を下ろしていたため、今も多くの花を咲かせ続けています。
当時、マツの樹齢は約100年、サクラは約40年と推定されていました。』

出典:【マツに生えたサクラの説明】より


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