出水の「七不思議」

出水にも七つの不思議があるという。
1.時雨松:華光寺(雨も降っていないのに、松の枝から雫がたれる。)
2.五色椿:華光寺(五色の花を咲かせるという椿。)
3.浮かれ猫:光清寺(絵馬に描いてある猫が、近くの遊郭から三味線の音が聞こえると遊びに出かける。この伝説が三味線上達の祈願・信仰に変わった。)
4.寝釈迦:五却院(境内の小門の木目が釈迦が横たわる姿に見える。)
5.泣く山門:観音寺(伏見城の牢屋の門を移築した。この門の潜り戸が風で開く時、人の泣き声に聞こえる。)
6.二つ潜り戸:極楽寺(なぜか山門の潜戸が二つある。)
7.日限薬師:地福寺(穴の開いた小石を奉納し日を限って祈ると、耳の聞こえないのが治る。)


時雨の松(華光寺)

時雨の松 五番町には「千本中立売」から歩き始めたのだが、『出水の七不思議』には「千本出水」から、出水通を西に入る。
「千本出水」でバスを降り、少し南に下がった出水通を西に入り、まずは華光寺を訪ねる。
華光寺は、天正11年(1587)の開山になる古刹であり、本尊横に祀られている「毘沙門天像」は、開運・厄除けとして信仰されており、蓮金山華光寺というよりも『出水の毘沙門さま』という通称で呼ばれることの方が多い。
またこの寺には出水の七不思議のうち、二つのものがあった。
その一つが「時雨の松」と云い、雨が降っていなくても松の枝から雫がたれており、晴れていても時雨の趣をもった松だったという。


五色の椿(華光寺)

五色の椿 そしてもう一つは「五色の椿」で、花咲く季節には五色の花を咲かせるという椿だった。
だがこの二つの銘木とも、今は立ち枯れてしまい、その姿を見ることは出来ないのだが、そのDNAを持った松と椿が境内に植えられている。





うかれ猫(光清寺)

うかれ猫 「時雨の松」と「五色の椿」がある華光寺から、出水通をはさみ南向いにあるのが、「うかれ猫」の不思議がある、光清寺である。
山門を入りすぐ左手にある弁天堂に掲げられている絵馬が、出水の七不思議の一つ「うかれ猫」である。
うかれ猫と呼ばれるようになったのは、
江戸時代の終わり頃、近くの五番町遊郭から聞こえる三味線の音につられ、絵馬の猫が夜な夜な抜け出して、女の姿となり踊り浮かれたという。
これを見た、光清寺の住職が法力で、うかれ猫を絵馬に閉じ込めてしまうのだが、その夜、一人の武士が住職の夢枕に立ち、「今後は世間を騒がせるようなことはしないので、どうか法力を解いてくれ」と懇願したという。
法力を解いてやると、それ以降は元の絵馬の猫に戻ったということから、この絵馬の猫を「うかれ猫」と呼ぶようになったという。
こんな所以から、三味線の上達の守り神として信仰を集めているのである。

参照:【うかれ猫の説明板】より
光清寺の所以は、その駒札によると
『1669年、伏見宮貞致親王が御生母慈眼院殿心和光清尼公の菩提のため杲山和尚を開山として創立された。
創立当初は天台・真言・華厳・禅の四宗兼学で声実庵と称したが、1706年、堂宇を焼失し伏見宮邦永親王により再建された。
この時宮家ご生母の法名をもって寺号とし心和山光清寺と改められた。なお宮家の縁故により無本寺格とし宮準門跡に列せられ明治初年臨済宗建仁寺派に所属した。
本堂に安置する聖観世音菩薩立像は慈覚大師の作と伝えられ、弁天堂は旧伏見宮邸より遷座された。』とある。
出典:【心和山光清寺の駒札】より
玄関前にある「心月の庭」と、本堂の前庭の「心和の庭」は、昭和の名作庭師と云われた、重森三玲の手になるものである。


寝釈迦(五劫院)

寝釈迦 「うかれ猫」の光清寺の横にあるのが、「寝釈迦」の不思議がある、五劫院。
五劫院(ごごういん)は、百万遍知恩寺の浄土宗鎮西派に属する尼寺である。
出水の七不思議の一つ「寝釈迦」は、五劫院の潜り戸の木目がお釈迦さまの寝ている姿に見えるというものなのだが、
自分は全くの的外れをしてしまい、潜り戸の門そのもの木目だと思い眺めていたのだが、実は潜り戸の上にある古びた茶色の横木の木目のことであり、
いくら潜り戸の木目をみても、釈迦が寝ている姿には見えなかったのである。
こんな失敗をもう一回しでかすのだが、それは後ほどのお楽しみに。


泣く山門(観音寺)

泣く山門 「寝釈迦」のお姿を見損ねて、出水通を、南北に通る七本松通に突き当たると、「山門が鳴く」不思議がある、観音寺である。
七不思議の一つ「泣く山門」とは、元々この山門は豊臣秀吉が築いた、伏見桃山城にあった牢獄の門を移したものだと云われ、楠の一枚板でできており、この門前で罪人を百回叩いて放免したことから「百たたきの門」と呼ばれていた。
この寺に移築された頃に、夜な夜な寺の前を通ると、人の泣くような声がするとの噂が広がった。
調べると、風の吹く夜に門扉が軋み、人の泣く声に聞こえたと判ったが、門扉に取り付いた罪人の怨霊を百日間、念仏を唱えて鎮めると以降、人の泣き声は聞こえなくなったという、不思議である。
観音寺は、その駒札によると、
『慈眼山と号し、浄土宗に属する。慶長12年(1607)、梅林和尚が一条室町に創建した。その後、天明の京都大火に遭って、建物をはじめ記録を焼失してしまったので、正確な寺史は困難となっている。
境内の観音堂の本尊は運慶の弟子安阿弥の造顕といわれ、堀川一条にあって1390年に疫癘(えきれい)の時死屍を捨てるものが多く、山名重氏は鎮疫を祈念し、霊験により死屍を蘇生させた。
延喜18年(918)に没した三善清行の葬送の時、その子浄蔵が佛神に祈って蘇生させたという、返り橋の名は戻り橋と呼ばれ、観音堂の信仰を集めて千人堂と称せられるようになった。慶長の頃に現地に移され、洛陽観音ニ十七番に数えられている。境内の「よなき地蔵」も著名である。』とある。

出典:【観音寺の駒札】より


二つのくぐり戸(極楽寺)

二つのくぐり戸 七本松通の「泣く山門」がある、観音寺の横にあるのが、「潜り戸が二つ」ある極楽寺。
六つめの七不思議は、山門横の潜り戸が普通は一つなのに、ここは左右に二つあることである。
何故、潜り戸が二つあるのかということも、寺の由来同様によく分かっていないという。
極楽寺は、阿弥陀如来を本尊とする浄土宗のお寺であるのだが、創建の時期やその由来はよく分からないという。
金谷山極楽寺と号するのだが、これは、この寺に湧く「金谷水(きんこくすい)」が名水で、豊臣秀吉が北野の茶会に使ったといわれ、それにあやかって、この水は勝負事に効き目があるという。


日限薬師(地福寺)

日限薬師 さて「出水の七不思議」の七つめの不思議であるが、地福寺の本尊に、穴の開いた小石を奉納し日を限って祈願すると、耳の聞こえないのが治るという薬師如来で「日限薬師」と呼ばれ、七つめの不思議である・・・
のだが実は、出水の七不思議を六つまで訪ね、最後の一つ「日限薬師」の地福寺にと思っていたのだが、この七本松通には他に不思議が二つ、
そして大雄寺や松月院などが通りに並び、ついぞ地福院の「日限薬師」を見たつもりになってしまい、
次に源氏物語ゆかりの地を訪ねるべく、七本松通から千本通まで戻ったのだが、その時に地福院の前を通ったのだが全く気にも留めずに、通り過ぎてしまったのである。
これも不思議な出来事の一つであろうか。(いやいや、それは不思議というよりも単純なうっかりミスである)


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