京の三熊野

熊野三山とは、紀伊熊野にある、本宮(熊野本宮大社)新宮(熊野速玉大社)そして那智(熊野那智大社)の三つをいい、平安時代の中期から「熊野詣で」が盛んになり、京都からも貴賎をとわず熊野に参る人が絶えることがなかった。
しかし、京都から紀伊熊野までは700Km、1ケ月以上の旅となり、大変な行程だったのである。そこで、熊野三山を京の都に勧請したのが、京の三熊野神社である。


新熊野神社

京都駅のD2乗り場から208系統のバスに乗り、「今熊野」で降りる。
そこから歩いて3分のところに、平清盛が後白河法皇への忠誠心から造営したという『新熊野(いまくまの)神社』がある。


新熊野

新熊野 新熊野神社は、平安後期の永暦元年(1160)に、後白河上皇が紀州熊野神社の神を、この地にあった仙洞御所法住寺殿の内に勧請したことに始まると云う。
また上皇の命を受けた平清盛は、熊野の砂や木々を用い社域や社殿を築き、那智の浜の青白の小石を敷いて、霊地熊野を再現したとされる。
当時は熊野信仰が盛んであり、天皇や上皇、公家などが紀州の熊野神社に詣でることが一大ブームであった。
この神社を「新熊野」と書いて「いまくまの」と読むのは、紀州熊野神社に対し、京に創った新しい今の熊野神社という所から「いまくまの」と呼ばれるようになったのだと云う。
新熊野神社は、熊野三山の本宮にあたる。



影向の大樟

影向の大樟 鳥居の横、東大路通に面した所に大きな樟がある。
これは、後白河上皇が新熊野神社を創建された折、国家鎮護と万民幸福を祈願し、紀州熊野より移植し、自ら植えたものだと云われている。
また熊野の神々がご降臨になる「影向の大樟」といわれ「健康長寿・病魔退散/特にお腹守護」の神として広く信仰を集めている。



本殿

本殿 新熊野神社は皇室の尊崇も厚く、広壮・荘厳を極めたが、応仁の乱で荒廃し、現本殿は寛文13年(1673)に聖護院の通寛親王(後水尾天皇の皇子)により再建されたものである。
本殿は、桁行三間(建物の長い方:ここでは奥行きが5.4m)、梁行一間(妻側で、ここでは正面が1.8m)の入母屋造妻入で、正面に向拝一間を付け、内部は正面通一間の外陣とその奥二間の外陣とに分かれている。
また本殿は、構造形式・平面構成共に熊野本宮証誠殿と同じで、全国的にも他に類をみず、さらに熊野の証誠殿よりも古いことからも、熊野造りの古制をよく伝えていると云う。



能楽隆昌、機縁の地

能楽隆昌、機縁の地 この地は、能楽隆昌、機縁の地とされ、能楽の大成者・世阿弥が若い頃の文中3年(1374)に、ここで父と共に、大和の猿楽結崎座を率い勧進興業を行い、見物していた室町幕府3代将軍・足利義満がいたく感嘆し、父を観阿弥、子を世阿弥と名乗らせたと云う。
これを機に世阿弥は猿楽の芸を高め、今日の能楽の隆昌をもたらしたという、能楽ゆかりの地である。


参照:【新熊野神社の駒札】より
参照:【後白河上皇お手植の「大樟」さんの駒札】より
参照:【新熊野神社・本殿、大樟の駒札】より
参照:【能楽大成。機縁の地の駒札】より

熊野神社

御霊神社の南にあったことから、下御霊神社と呼ばれるが、以後、社地を転々とし、天正18年(1590)に豊臣秀吉の命により、この地に鎮座することになる。
拝殿は寛政10年(1798)に造営されたものである。
本殿は天明8年(1788)に仮皇居の聖護院宮において造営された内侍所仮殿を、寛政3年(1791)に移建したもので、仮殿造営当初の規模、形式をよく残している。
本殿の前には、切妻造の幣殿(寛政5年)が取りつき、その前には更に唐破風造の拝所(寛政5年)がつく。
また、幣殿からは南北に入母屋造の廊(文政13年・1830)がのびている。
本殿、幣殿、拝所そして南北廊が、屋根をそれぞれ交錯させて一連の内部空間をつくる特異な社殿構成は、御霊神社に特有のものである。

出典:【下御霊神社の駒札】より


熊野神社前

熊野神社前 いつもは貰ってもカバンに仕舞ったままの『バスなび』を取り出して「熊野神社前」を探すと、なんとA3から出る左回りの206系統ではなく、D2乗り場から出る右回りの206系統に乗らなければならないことが分かった。
D1・D2乗り場は東大路通を、三十三間堂や清水寺・祇園・知恩院へと向う、何時もは大勢の人が並ぶ路線で、この界隈に行く時は自分はまずこの乗り場からは乗らないのである。
そんな訳で、今回も、この乗り場は全く頭になくて、206系統はA3から乗るものだと思い込んでいたのである。
幸いにも冬の京都は一番観光客の少ない時期で、久振りに東大路通を走るバスに乗り、「熊野神社前」でバスを降りた。バスを降りると『熊野神社』はすぐである。



熊野神社

熊野神社 熊野神社前のバス停のすぐに「熊野神社」がある。
十六社めぐりというのがあり、京の町にある十六の社寺をめぐり、ご朱印を頂くというものであるのだが、熊野神社はそのうちの一社であり、以前にもここを訪ねてはいたのだが、初詣もかねて手を合わさせてもらった。
修験道の始祖、役行者十世、僧日圓が熊野速玉大社を勧請したことにより、
熊野神社は熊野三山の新宮にあたる。



本殿

本殿 熊野神社は、平安末期に熊野詣でが流行り、「熊野若王子神社」「新(いま)熊野神社」と共に、京の熊野三山といわれており駒札にその由緒をみると、
『我が国最初の夫婦神である伊弉冉尊(いざなみのみこと)・伊弉諸尊(いざなぎのみこと)と天照大神(あまてらすおおみかみ)、速玉男尊(はやたまのをのみこと)、事解男尊(ことさかのをのみこと)の五柱の神を祀り、縁結び、安産、健康長寿の御利益があるとして信仰されている。
平安時代の弘仁2年(811)に修験道の日圓上人が国家守護のため、紀州熊野大神を勧請したことに始まるといわれている。寛治4年(1090)に創立された聖護院は、当社を守護神として別当職を置いて管理された。
熊野信仰が盛んであった平安末期、後白河法皇は度々熊野御行(熊野詣で)を行なうとともに当社を厚く崇敬し、紀州の土砂や樹木を用いて社頭の整備に力を注いだ。
室町時代には足利義満から広大な社地を寄進され、社域は鴨川に至るものとなった。その後も歴代天皇に崇敬され、庶民の信仰も集めたが、応仁の乱により荒廃した。
江戸時代の寛文6年(1666)、衰微を嘆いた聖護院宮道寛法親王によって再興され、天保6年(1835)には大修造が行われた。現在の本殿は、その時に下鴨神社の旧本殿を移築したものである。
大正元年(1912)の市電丸太町線の開通、昭和元年(1926)の東大路通の拡幅などにより、現在の社域となった。
毎年、5月16日に例祭、4月29日に神幸祭が行なわれる。大小の神輿があり、大神輿は光挌天皇の寄進によるものである。』

出典:【熊野神社の駒札】より


熊野若王子神社

鹿ケ谷通の「新島襄先生墓地登り口」の石碑から東に200mほど歩くと、疎水分水に架かる、若王子橋がある。
この若王寺子橋を渡ると「熊野若王子神社」がある。若王子神社は、熊野三山の那智大社にあたる。
そして、ここから疎水に沿って北の銀閣寺までの(疎水は今出川通へと北流する)1.8Kmを哲学の道といい、ここからその道が始まる。


梛の木

梛の木 神社の入口には、樹齢400年とも云われる、梛(なぎ)の木がある。
古来、紀州熊野三山詣でや伊勢参宮などの折に、禊の木として用いられたという。
その横にある石橋は、明暦2年(1656)7月に吉良家より寄進されたものである。



宝形

宝形 また境内には宝形が残っているが、その昔、宝形造りの地仏堂があり、その上の部分が残っているもので、地仏堂には薬師如来坐像が安置されていたが、明治4年(1871)の神仏分離の際に移され、現在は国宝として奈良国立博物館に所蔵されている。

出典:【宝形そばの駒札】より



恵比須殿

恵比須殿 正面、石の鳥居を入ると「恵比須殿」がある。祭神として、木造寄木造等身大坐像の、恵比須神像が祀られている。
若王子神社は、永暦元年(1160)後白河法皇が熊野権現を勧請し建立された、正東山若王子の鎮守社であり、社名は天照大神の別称、 若一王子に因んでこのように名付けられた。
室町幕府の信仰を集めると共に花見の名所としても知られ、 寛正六年(1465)3月には足利義正により花見の宴が催されたりもした。
応仁の乱により荒廃したが、 豊臣秀吉により再興され社殿及び境内が整備された。
その後、明治初年の神仏分離によって当社のみが残り、現在の社殿は昭和54四年(1979)一社相殿に改築されたもので、以前は本宮・新宮・那智・若宮の四棟からなっていた。
こじんまりとした神社ではあるが、「熊野神社」「新熊野神社」とあわせ、京都三熊野のひとつとして良く知られている。
また本殿に至る手前の石橋の高欄は、元は若王子橋の高欄として、大正9年(1920)より使用されていたものを、橋の改修とともに、その役目を終えこの場所に移された。

参照:【神社境内の駒札】より


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