暗殺の主謀者は誰か

坂本龍馬は、慶応3年(1867)11月15日に、僚友、中岡慎太郎とともに、近江屋で刺客に襲われ絶命するのだが、この暗殺の主謀者については昔から色々と騒がれており、暗殺の主謀者は誰かという論議は避けては通れない。


まずは、土佐藩参与、後藤象二郎の画策だという説……

龍馬の献策で大政奉還を山内容堂に提唱し、容堂が慶喜に進言して大政奉還が成るのだが、その手柄を独り占めにしようと、龍馬暗殺を指示したというものである。
しかしながらこの説には無理があり、長崎からの船中で龍馬より「船中八策」を聞いており、他にも海援隊士の長岡謙吉らが同船しており、龍馬のみを暗殺しても独り占めにすることは出来ず、また後藤には、武市半平太のような人望もなく、それを考えたとしても、とても実行に移すことは不可能だったのである。


そして、紀州藩がいろは丸の遺恨で襲ったという説……

瀬戸内海、備讃瀬戸の六島で紀州藩の明光丸と衝突し沈没した「いろは丸」の賠償で、紀州藩が賠償金8万3526両を支払わさせられた腹いせに、藩を挙げて龍馬を狙ったというのだが、
これも噂にすぎず、この噂を信じた陸奥陽之助らが、紀州藩公用人の三浦休太郎を、油小路正面の天満屋の2階に襲ったのであるが、どうやらこれもがせネタだったようである。


また、新選組が主謀者という説……

暗殺当時は新選組に違いないとされ、刺客が「こなくそ」と伊予弁で切りつけたことから、原田左之助や大石鍬次郎の仕業とも、刀傷が左ききだったとかで斉藤一の仕業とも云われ(龍馬に斬りかかったのは、左から右であり、左ききではこの傷は付く事は無い)
板橋で近藤勇が斬首されたのはこれが一因とも云われているが、龍馬が暗殺された時に新選組の内々で「やっていないから気を付けよ」とのふれが出ており、今はこの説を支持する人はいない。


そして、佐々木只三郎以下6名の京都見廻組隊士だという説……

元治元年(1864)江戸幕府は京都守護職の下に京都見廻組という京都治安維持の組織を結成する。見廻組隊士は、新選組など浪士ではなく、れっきとした幕臣(旗本など)の武士であった。
見廻組は新選組と共に、勤皇の浪士を取り締まり、主に御所、二条城周辺の官庁街を管轄とし、新選組は祇園や三条などの町人町の管轄であった。
明治3年(1870)に京都見廻組で暗殺に加わった一人、今井信郎の供述や同じく渡辺一郎が大正4年(1915)に残した遺書などによって、現在はこの京都見廻組が実行犯だというのが通説となっている。
しかしながら、京都見廻組実行犯について、特に熱狂的な龍馬ファンは異説を唱える。それは今井と渡辺の供述に食い違いがあることである。
まず、刺客の人数が7名と6名、そして刺客の配置と役割分担の違い、遺留品である刀の鞘を忘れた人物が渡辺吉太郎と世良俊郎、切った箇所と切り傷の相違などに食い違いがあり、そして又、時すでに大政奉還がなされ1ケ月が経過しており、徳川幕府を平和裏に政権移譲しようとした龍馬を暗殺する動機が京都見廻組には、見当たらないのである。


もうひとつは、薩摩陰謀説……

薩摩の西郷や大久保が武力倒幕のためには、龍馬の思想と行動が目障りとなり、幕府側に龍馬の居場所を知らしたというのであるが、
一部熱狂的な龍馬ファンにこの説を支持する人が多いのだが、全く根拠が薄く歴史的事実とは云い難いのである。
自分などは、この薩摩陰謀説を支持し、更に長州もこれに加担をし暗殺の実行犯は、薩摩示現流の達人で「げんなくそ」と云って斬りかかったと考えている。
全く根拠のない話ではあるのだが……




坂本龍馬は、天保6年11月15日(1836年1月3日)高知城下の本丁筋(現、高知市上町一丁目)に生まれ、慶応3年11月15日(1867年12月10日)に没す。享年33才。

中岡慎太郎は天保9年(1838)4月安芸郡北川郷柏木(現、高知県安芸郡北川村柏木)、奈半利から、奈半利川に沿って北に一里半(6Km)ほど行った山の中でうまれ、慶応3年11月17日(1867年12月12日)に没す。享年29才であった。

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