京の六地蔵めぐり

京の六地蔵巡りは、850年の伝統を持ち、8月22、23日に、京の六街道に安置された地蔵尊を巡り、頂いたお札を家の入口に吊るすと、厄病退散、家内安全の護符になるという。
六地蔵めぐりとは、
『地蔵堂に安置された地蔵菩薩立像は、平安時代の初め仁寿2年(852)に、「小野篁(おののたかむら)」が作ったものと伝えられる。
地獄の閻魔大王に仕える篁は、地獄で人々の苦しんでいる姿を見るのだが、その時一人の僧が人々の苦難を救っているのを目にする。
その僧は「地蔵菩薩である」と名のられ、
「天上、人間、修羅、畜生、餓鬼、地獄の六道の迷いの世界を巡りながら縁ある人々を救っている。全ての人を救いたいが、縁のない人を救う事はできない。私にとっても残念な事だ。貴方はこの地獄の苦しい有様と地蔵菩薩の事を人々に知らしめてほしい」
と聞いて地獄から戻った篁は、木幡山から一本の桜の木を切り出して、六体の地蔵菩薩像を刻み此の地に納めた。それよりここが六地蔵と呼ばれるようになった。
その後、保元2年(1157)後白河法皇の勅命により、平清盛が西光法師に命じて、京都の街道の入り口六ヶ所に六角堂を建て、一体づつご尊像を分置する。最初に六地蔵巡りをされたのが、西光法師と言われ、これが六地蔵巡りの始まりである。』

参照:【大善寺の石碑碑文】より
六街道に安置された地蔵尊は、
「奈良街道」:伏見六地蔵(大善寺)/「西国街道」:鳥羽地蔵(浄禅寺)/「山陰街道」:桂地蔵(地蔵寺)
「周山街道」:常盤地蔵(源光寺)/「若狭街道」:鞍馬口地蔵(上善寺)/「東海道」 :山科地蔵(徳林庵)


伏見六地蔵「大善寺」=JR奈良線/京阪「六地蔵」駅(伏見区桃山西町六地蔵)

大善寺 六地蔵めぐりの一番札所は、伏見桃山にある、伏見六地蔵「大善寺」である。
大善寺には、京阪「六地蔵」の駅からは7分、JR「六地蔵」からは9分ほど、西に歩いた所にある。
六地蔵めぐりの始まりは、ここ大善寺に小野篁(たかむら)が六体の地蔵尊を祀ったことに始まる。
小野篁は、平安時代の始めに、この世とあの世を行き来して、地獄の閻魔大王に仕えたという人物として知られているのだが、実際は、参議左大弁従三位という地位の官吏であった。
そんな人物が何故この世とあの世を行き来出来たのかは、謎のままである。
大善寺の駒札によれば、
『法雲山浄妙院と号する浄土宗の寺院で、「六地蔵」の名で知られている。
奈良時代以前の慶雲2年(705)に藤原鎌足の子、定慧(じょうえ)によって創建されたと伝えられている。
地蔵堂(六角堂)に安置する地蔵菩薩立像(重要文化財)は、平安時代の初め、小野篁(おののたかむら)が、一度息絶えて冥土へ行き、生身の地蔵尊を拝して蘇った後、一木から刻んだ六体の地蔵の一つといわれている。
当初、ここに六体の地蔵尊が祀られていたため、「六地蔵」の名が付いた。』

出典:【大善寺の駒札】より
境内にある鐘楼は、徳川二代将軍秀忠の娘・東福門院(後水尾天皇の皇后)が安産祈願成就の礼として、寄進したものである。
鐘楼は、寛文5年(1665)の建立で、伏見奉行・水野石見守の普請で、国松平兵衛が建て、鐘は藤原朝臣家次が鋳したとあり、鐘の大きさは、径・三尺(0.9m)、高さ・四尺三寸(1.3m)、重さ・二百五十貫(1t)である。


鳥羽地蔵「浄禅寺」=市バス「地蔵前」(南区上鳥羽岩ノ本町)

浄禅寺 六地蔵めぐりの2番札所が、西国街道にある、鳥羽地蔵「浄禅寺」である。
浄禅寺には、18系統に市バスが寺の前に止まるのだが、このバスは京都駅を経由しないので、まず京都駅から四条大宮へとバスに乗る。
「四条大宮」から18系統に乗り、「地蔵前」でバスを降りると、目の前が「浄禅寺」である。
浄禅寺は、文覚上人の開基になり、駒札によれば、
『恵光山(えこうざん)と号する浄土宗西山禅林寺派の寺院である。
寺伝によれば、寿永元年(1182)の文覚(もんがく)上人の開基で、境内に袈裟御前(けさごぜん)の首塚(恋塚)といわれる五輪石塔があることから、恋塚の名で知られている。
平安末期の北面の武士・遠藤盛遠(もりとお)は、渡辺左衛門尉渡(さえもんのじょうわたる)の妻・袈裟御前に恋し、渡と縁を切ることを迫ったところ、
袈裟御前は夫を殺してくれと盛遠にもちかけ、操を守るため自分が夫の身代わりとなって盛遠に殺されてしまうという悲恋の物語が伝わる。
自分の罪を恥じた盛遠は出家して文覚上人となり、袈裟御前の菩提を弔うために当寺を建立したとされている。
本堂には、十二世紀に作られた本尊阿弥陀如来立像を安置し、観音堂には、十世紀の作とされる十一面観音立像(市指定有形文化財)を祀っている。
また、地蔵堂に安置する地蔵菩薩は、平安時代の初め、小野篁が一度息絶えて冥土へ行き、生身の地蔵尊を拝して蘇った後、一木から刻んだ六体の地蔵の一つと伝えられ、一般に「鳥羽地蔵」と呼ばれている。
毎年、8月22・23日の京都六地蔵巡りには、多くの参拝者でにぎわう。』

出典:【恋塚 浄禅寺の駒札】より

桂地蔵「地蔵寺」=市バス「桂消防署前」(西京区桂春日町)

地蔵寺 六地蔵巡りの3番札所が、山陰街道にある桂地蔵「地蔵寺」である。
ここには、京都駅から、C5乗り場から、33系統の市バスで、「桂消防署前」で降りるとすぐである。
桂小橋と桂大橋を渡ると、山陰街道は桂の里となるのだが、ここが平安京の八条西京極大路である。
その桂の山陰街道に建つのが「地蔵寺」で、8月22・23日に行われる六地蔵巡りの一つである、桂地蔵が安置されている寺である。
桂地蔵は、桜の大木の最下部から彫られたことから「姉井地蔵」とも呼ばれ、六地蔵の中で最も大きい地蔵尊である。
駒札によれば、
『浄土宗の寺で、京都六地蔵巡りの霊場である。
本堂に安置される本尊の地蔵菩薩(桂地蔵)は、平安時代の初期に、小野篁が一度息絶えて冥途へ行き、生身の地蔵菩薩に出会って蘇った後、一本の大木から作った六体の地蔵菩薩の一つであると言われている。
本堂の東に鎌倉初期の石造薬師如来坐像を安置し、境内には石造宝きょう印塔がある。
また昔この辺りは、桂川の渡しに近く、桂大納言源経信や伊勢女等の歌人の住居があったといわれている。』

出典:【地蔵時(桂地蔵)の駒札】より
また、『心をほしいままにすれば、苦悩が生まれる。心を清め、身を清め、欲をおさえて、善く生きよう。人の行いを気にせず、自分をかえりみよう。正しく生きているかと、心がまるければ、言葉もやさしくなり、人にも大切にされる。』との文字が書かれていた。


常盤地蔵「源光寺」=市バス「常盤」・嵐電北野線「常盤」駅(右京区常盤馬塚町)

源光寺 六地蔵めぐりの4番札所は、周山街道にある常盤地蔵「源光寺」である。
ここは嵐電北野線の常盤駅から南に200mほど歩いたところにある。
唯一全国地蔵本尊根本霊場で、常盤山源光寺と称し、弘仁2年(811)に、嵯峨天皇の第三皇子である源常(みなもと ときわ)を開基とし創建される。
のちに後白河法皇が帰依され、光明地球本尊を祀り、宗教宗派に関係なく庶民の救済と信仰の根源地と定められた。
また源義経の母・常盤御前が生まれた所で、晩年はここに庵を結び余命を過ごしたという。
境内には常盤御前の墓がある。
常盤御前は、近衛天皇の中宮、九条院(藤原呈子)の雑仕女で、この雑仕女に採用される時、都の美女千人を集め、そこから百名を選抜し、さらに十人を選んだ中に入り、その中でも一番美しい女性だったという。
源義朝に見初められ側室となり、今若(後の阿野全成)、乙若(後の義円)、牛若(後の源義経)を生む。
平治の乱で義朝が亡くなり23才で未亡人となり、平家の手を逃れ雪の中を三人の子を連れて大和に逃げるも、都で母が捕まると平清盛の前に出頭する。
清盛は常盤をひと目見て心を動かし、常盤が清盛の側妾になることを条件に、三人の子供の命を助けるのである。
その後、公家・一条長成の後添えになり、一男一女をもうけている。
源光寺の八角形の本堂や門前に掛る「唯一全国地蔵尊霊場会総合本部」などから、ここは、どんな寺仏を祀り、何を信仰する寺なのか、不思議な想いを感じるのだが、臨済宗天龍寺派の尼寺で、本尊は観世音菩薩である。
また六角堂には常盤地蔵または乙子地蔵と呼ばれる地蔵尊が安置され、京の六地蔵巡りの4番札所で、周山街道を守る地蔵菩薩である。


鞍馬口地蔵「上善寺」=地下鉄烏丸線「鞍馬口」駅(北区鞍馬口通り寺町)

上善寺 六地蔵めぐりの5番札所が、若狭街道に祀られる、鞍馬口地蔵「上善寺」である。
上善寺は、地下鉄「鞍馬口」から東に歩いて5分の所にあり、寺町通が鞍馬口通に突き当たる寺町頭に位置している。
寺町通が鞍馬口通にあたると築地塀がみえるが、ここが上善寺である。
駒札には、
『千松山遍照院と号する浄土宗の寺院である。
貞観5年(863)、僧円仁により、天台密教の道場として千本今出川(上京区)に創建されたと伝えられている。
その後、文明年間(1469〜87)に、春谷盛信(しゅんこく せいしん)によって再興され、後柏原天皇の勅願寺として栄え、文禄3年(1594)、寺域を現在の地に移し、浄土宗に改められた。
地蔵堂に安置する地蔵菩薩は、平安時代の初め、小野篁(おのの たかむら)が一度息絶えて冥土へ行き、生身の地蔵尊を拝して蘇えった後、一本から刻んだ六体の地蔵の一つと伝えられ、「鞍馬口地蔵」、「深泥池地蔵」、「姉子の地蔵」などの愛称で親しまれている。
この地蔵は、当初、小幡の里に祀られていたが、保元年間(1156〜59)に、洛北の深泥池のほとりに祀られ、更に当寺に移されたものといわれている。』

出典:【上善寺の駒札】より
上善寺には元治元年(1864)に起こった禁門の変で、鷹司邸の辺りで戦死した長州藩士、入江九一ほか7名が、越前藩によって、その菩提寺である上善寺に祀られている。
明治になり長州が政権を握ると、おおやけに祀られこととなり、勝った者と負けた者の喜怒哀楽が如実に現れたといえる。
もし、その時に徳川が勝っていたならば・・・


山科地蔵「徳林庵」=京津線「四ノ宮」駅(山科区四ノ宮泉水町)

上善寺 JR山科からは京阪京津線の踏切りをこえて南に、三条街道と交差する所でRACT山科を右にみて左に、旧東海道を東に10分ほど歩くと、山科地蔵「徳林庵」に着く。
『山科地蔵(または、四ノ宮地蔵)は、旧東海道沿いに建ち、保元2年(1157)に、後白河法皇の勅命で、京の主要六街道に安置された地蔵尊のうちの一つであり、京への災いが及ばぬように、ここで京への魔物の進入を防いだのである。
山科地蔵は東海道の守護佛となり、毎年8月22日、23日の六地蔵巡りが伝統行事となった。
徳林庵は、仁明天皇第四之宮人康(さねやす)親王の末葉、南禅寺第260世雲英正怡(うんえいしょうい)禅師が1550年に開創した。
境内には、人康親王、蝉丸供養等(室町時代)、茶所の4体石仏(鎌倉時代)、荷馬の井戸、飛脚の釜がある。』

出典:【山科(四宮・山科廻り)地蔵と徳林庵の駒札】より
山科地蔵の北側にあるのが「徳林庵」その駒札によると、
『柳谷山と号し、臨済宗南禅寺派の寺である。南禅寺の雲英禅師がその祖といわれる。
仁明天皇の第四の宮人康(さねやす)親王の菩提を弔うために草創したものという。
この地はもと十禅寺の開山人康親王が、隠栖された処で、地名も四の宮泉水といわれている。
地花堂本尊は、参議小野篁(たかむら)が一木から刻んだ六地蔵の一といわれ、京の町から諸国、諸地方へ向う東海道の出口にあたり、物詣でや疫病の送り御霊会などの交流から道祖神塞神の信仰となり地蔵菩堤信仰として栄えた。
また堂後には、四の宮明神と人康親王を祀る供養塔があり、また禅丸塔ともよんでいる。
江戸時代には検校位を有する盲人が、毎年一回全国から参集して琵琶の奥技を演じ、親王の御霊を慰めたという。』
出典:【徳林庵の駒札】より


深泥池地蔵

深泥池地蔵 5番札所の上善寺の地蔵尊が、深泥池のほとりに祀られていたものが、ここに移ったとあったが、その地蔵尊が祀られていたのが「深泥池地蔵」である。
深泥池の西側の狭い道が、切通と呼ばれ幡枝へと続く鞍馬街道だが、この街道の口に建つのが「深泥池地蔵」
この地蔵尊は、元、六地蔵巡りの一つであったのだが、明治の廃仏毀釈により追放され、今は寺町頭の上善寺に鞍馬地蔵として祀られている。いまここにある地蔵尊は二代目である。
深泥池地蔵の由来によれば、
『京の六地蔵の一つが深泥池地蔵である。
「源平盛衰記」巻6によれば、保元年間(1156〜59)西光法師が都街道の入り口に、六体の地蔵尊を安置し、廻り地蔵と名付けた。
即ち四宮河原(東海道)、木幡の里(奈良街道)、造道(鳥羽街道)、西七条(山陰街道)、蓮台野(周山街道)とともに深泥池(鞍馬街道)がえらばれたとのことである。
近世は六地蔵めぐりの定着により、その霊場の一つとなってからは、朝野の信仰をあつめるに至った。
八尺ほどある地蔵菩薩立像で、平安期の小野篁公作と伝えられたものであったが、明治初年(1869)の廃仏毀釈のため法難にあい、賀茂の神領外へ追放され、今の寺町頭の上善寺(現鞍馬口地蔵)に祀られている。
時を同じくして宝池寺(現浄福寺の前身)も廃寺となり、山を越えて幡枝の浄念寺に預けられた。
明治以降、深泥池村は守護神がなくなったためか、明治2年と16年に二度の災火に見舞われた。
しかし勤勉な村民の努力によりやっと復興の目途がたつと同時期に、たまたま京五条の十念寺経由で西光組から当村の事情を察知し、二代目地蔵菩薩が奉納された。明治28年(1895)5月である。
御本尊は、御身六尺三寸の立像で、その昔伊勢の海に漂流していたとのこと。
又、奇しくも小野篁公作といわれており、当村は地蔵菩薩に深く御縁があり、村民の信仰心の厚さが窺われる。
地蔵堂正面に御詠歌額が揚げられてある。
「たちいでて また たちかえる みぞろ池 とみをゆたかに まもるみ仏」明治二十八年十一月京都正光組と明記』

出典:【深泥池地蔵の由来】より


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