院政と関わりがあった「六勝寺」

岡崎はその昔、六つのお寺があった所で、その六つの寺を称し「六勝寺」という名で呼ばれていた。
六勝寺とは、院政の頃(12世紀)にこの岡崎に天皇の個人的な思いで、豪壮華麗な寺が建てられたもので、ときの天皇の権力によりその規模は異なるが、その何れの寺にも「勝」の字が付けられていた為に、六つの勝の寺で「六勝寺」と総称された。
天災や人災によりこれらの寺は今はもうこの世にはなく、その名残を町名に残しているのみである。ここでは、六勝寺の跡を訪ね、往時の繁栄の跡を偲んでみようと思う。


尊勝寺跡

尊勝寺跡 尊勝寺は、73代堀河天皇により、康和9年(1102)に建立され、現在地は「岡崎尊勝寺町」と「岡崎西天王町」とにまたがっている。
ときは平安時代の後期、まさに院政の華やかし頃であり、堀河天皇は、8才で即位するが白河上皇が政権を握り、政治に携わることなく29才の若さで崩御する。
その規模は、法勝寺についで二番目に大きい寺であり、発掘により見つけられた遺跡が一番多く出土している寺でもある。
現在の地名は、桜馬場通の疏水を挟んで西は岡崎天王町の府営住宅のある辺りから、東は旧武徳殿を含んで、平安神宮あたりまでの範囲で、東西110尺(33m)南北64尺(19.2m)の広さだったと云われている。


延勝寺跡

延勝寺跡 延勝寺は、76代近衛天皇により、久安5年(1149)に建立され、現在地「東大路二条下ル東西の両側」で、その最も東側が疏水を少し越えて二条通東大路を東に少し入ったところである。
近衛天皇は、藤原得子(美福門院)が鳥羽上皇の寵愛を受けて生んだ子で、僅か2歳という若さで即位した。この背景には、鳥羽上皇が、75代崇徳天皇を、祖父である白河法皇の子だと疑った為に崇徳を嫌い、実の子の近衛を帝位に付けたのだとも、また藤原得子の色香に迷ったのだとも云われている。
延勝寺は六勝寺では一番最後に建てられた寺であり、平清盛の父である忠盛が建設の責務を担って建立された。ときは武士が台頭し始めた時代で、保元・平治の乱が起り平家がその権力を握って行く時代でもあった。


成勝寺跡(みやこめっせ)

成勝寺跡 成勝寺は、75代崇徳天皇により、保延5年(1139)に建てられ、現在地は「岡崎成勝寺町」と「神宮寺東側」とにまたがっていて、「みやこめっせ」のある所がその跡である。
崇徳天皇は5才で皇位に付くが、父である鳥羽法皇に疎んじられ、24才で近衛天皇に皇位を譲る。その後上皇となるも、権力は鳥羽法皇が握り実権のない上皇であった。
近衛天皇が崩御し後白河が天皇の位に付き、その後、鳥羽法皇が亡くなると、崇徳と後白河との間で権力の座を巡る戦が起る。これが保元の乱である。保元の乱に敗れた崇徳院は、讃岐国に流されて、この地で不遇の生涯を終えている。
崇徳天皇の御歌に、
瀬を早み 岩にせかるる滝川の  われても末に あはむとぞ思ふ が小倉百人一首にあり、NHKの朝ドラ「ちりとてちん」の中でも、崇徳院という落語があり、この歌を草原(桂吉弥)が演じていたのを覚えている方もあるだろう。


円勝寺跡(京都市美術館)

円勝寺跡 円勝寺は、待賢門院(鳥羽天皇の中宮で75代崇徳・77代後白河天皇の母であり、源平が入り乱れ戦った保元の乱は、この長子「崇徳」と四子「後白河」の権力争いであった)により、太治3年(1128)に建てられ、現「岡崎円勝寺町」にあたる地域である。
円勝寺は京都市美術館の位置する所にあったようで、平安神宮の赤い鳥居の立つ疏水べりの地である。円勝寺は待賢門院の御願になる寺で、六勝寺の中では唯一、天皇ではない発願によって建てられた寺である。
待賢門院は平安の後期に生き、その名を藤原璋子、音読みを「しょうし」訓読みを「たまこ」と云い、幼い頃に父を亡くし、白河院と祇園女御の養女として鳥羽天皇に入内をし中宮となるのだが、白河院が亡くなると一挙に後ろ盾がなくなり鳥羽天皇の寵愛する美福門院に権力の座を奪われ、久安元年(1145)に亡くなるのだが、皮肉なことに待賢門院の生んだ、長子と四子との間で、朝廷没落の引き金になる保元の乱が始まるとは、なんという廻り合わせであろうか。


最勝寺跡

最勝寺跡 最勝寺は、74代鳥羽天皇により、元永元年(1118)の建立で、現在地は「岡崎最勝寺町」である。最勝寺は平安神宮への参道である神宮道を挟み、東西両側の辺りだったようである。神宮道の東側はグランドになっていて、そのむこうの東山には「大」の字が見える。
最勝寺は74代鳥羽天皇の御願で、円勝寺を建立した待賢門院とは夫婦の関係なのだが、必ずしも上手くはいってなく、白河院を後ろ盾に続いた夫婦関係で、白河院が亡くなるとその関係は脆くも崩れ去り、鳥羽天皇は藤原得子(美福門院)を寵愛し近衛天皇が生まれる。
と……いやこの時代はややこしいこと、ややこしいこと。誰が誰とどうなっているのか全く分からない世の中であり、権力を握ったものが総てを握るという世の中で、権謀術策の渦巻く世であったようである。


法勝寺跡(白河院跡)

法勝寺跡 法勝寺は、72代白河天皇により、承暦元年(1077)に建てられて、現地名は「岡崎法勝寺町」と「京都市立動物園」とにまたがる地域である。法勝寺は、六勝寺の中で一番大きい寺であり、最初に出来た寺でもある。
この六つの寺を建てた天皇の中では白河天皇がその身をまっとうし、院政を敷いて77才まで3代の天皇、43年間も政権の座に君臨していたのである。
堀河、鳥羽、崇徳と三代に亘る院政は、この後の天皇家による政治を危うくしたのである。
法勝寺は、もともとは藤原良房の別荘だった「白河院」であるのだが、藤原師実の時に白河天皇が所望し、承保2年(1075)に法勝寺が建てられた。法勝寺は六つの寺の中では一番大きく、東は疏水記念館あたり、西は岡崎道、南は京都市動物園の疏水の辺り、北は冷泉通と広大な寺域を有し、そこには豪奢な堂塔伽藍がひしめいていた。
ところが文治元年(1185)の大地震、更に康永元年(1342)の火災などにより堂塔伽藍が失われ、その後覚威和尚により再建されるも衰退し、ついにこの地から無くなってしまうのである。今この六つの寺の跡はこの世に残ってはおらず、その昔の院政の時代から武士の時代に移り変わろうとする時の流れをどう感じながら建っていたのであろうか。


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