怨霊の御魂を鎮める「下御霊神社」


八所御霊

八所御霊 下御霊神社の祭神は「八所御霊」といわれる八柱で、いずれも無実の罪などで非業の死をとげ怨霊となり、世に疫病や天変地異をもたらしたとされ、そのを鎮めるために御霊が祀られたのである。






本殿

本殿 御霊神社の南にあったことから、下御霊神社と呼ばれるが、以後、社地を転々とし、天正18年(1590)に豊臣秀吉の命により、この地に鎮座することになる。
拝殿は寛政10年(1798)に造営されたものである。
本殿は天明8年(1788)に仮皇居の聖護院宮において造営された内侍所仮殿を、寛政3年(1791)に移建したもので、仮殿造営当初の規模、形式をよく残している。
本殿の前には、切妻造の幣殿(寛政5年)が取りつき、その前には更に唐破風造の拝所(寛政5年)がつく。
また、幣殿からは南北に入母屋造の廊(文政13年・1830)がのびている。
本殿、幣殿、拝所そして南北廊が、屋根をそれぞれ交錯させて一連の内部空間をつくる特異な社殿構成は、御霊神社に特有のものである。

出典:【下御霊神社の駒札】より

八柱の祭神は……

早良親王(さわらしんのう)
奈良時代末期の皇族で、造長岡官吏の藤原種継暗殺事件に関与したとの罪で、淡路国に配流の途中で憤死する。その後、桓武天皇の身内に病が続き、早良親王の祟りだといわれた。

伊予親王(いよしんのう)
大同元年(806)に中務卿兼大宰師に任じられるが、翌年、藤原宗成により反逆の主謀者だと受訴され、川原寺に幽閉され無実を唱えるも聞き入れられず、毒をあおって自害し怨霊となる。

藤原吉子(ふじわらのきっし)
伊予親王の母親で、親王と共に捕えられ、川原寺にて親王と一緒に自害する。後に、二人とも無実であることが判明している。

藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)
奈良時代の廷臣で、反藤原の勢力により大宰府に左遷され、時の権力者、左大臣橘諸兄を批判した罪を問われ召喚の命に従わず、1万余の兵にて反乱を起こすが武運つたなく肥前国松浦郡にて捕えられ、唐津で処刑されている。

橘逸勢(たちばなのはやなり)
平安時代の書家、宮人で、空海、嵯峨天皇とともに「三筆」と称された。延暦23年(804)には遣唐使として唐にも渡っている。
藤原北家の藤原良房の動きに不安を感じ、恒貞皇太子を東国に逃がそうと画策するが発覚し、伊豆に流される途中に遠江板築にて病没をする。

文屋宮田麻呂(ふんやのみやたまろ)
平安時代初期の宮人で、承和10年(840)に謀反の罪により伊豆に流されている。後に無実が明かされる。

吉備聖霊(きびのしょうりょう)
吉備真備(きびのまきび)は奈良時代の学者、政治家で、養老元年(717)に遣唐使として唐に渡り、20年近くを唐で過ごした後、無事に帰国し右大臣にまで登りつめた人物である。
この人のみ非業の最期ではなかったのだが、地方出身者が破格の出世をした為に、嫉みや中傷誹りが渦巻いていたのだろうか。

火雷天神(からいてんじん)
火雷天神とは菅原道真のことで、死後怨霊となり清淳殿に雷を落としたことから、雷神と結びつきこう呼ばれた。これらの御霊(みたま)を祀ることによって、京の都に住む怨霊を鎮め都を鎮護しているのである。

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