泉涌寺の七福神巡り

泉七福神巡りは、昭和26年(1951)以来、毎年成人の日に行われる。泉涌寺のお山にある七福神の寺院を、福笹を持って、それに七福神それぞれの吉兆を付けながら、福を頂き一年の幸せを祈願するものである。
総門を入り一番、福禄寿の即成院から、七福神の寺院を巡ってみよう。


第一番・那須与市ゆかりの「福禄寿の即成院」

即成院 泉涌寺道から歩くこと5分で、泉涌寺の総門となる。
その横にあるのが、七福神の第一「福禄寿の即成院」がある。通称を、那須与市さんと言う。
『即成院は、山号を光明山とする真言宗泉涌寺派の寺である。
寺伝によれば,正暦3年(992)、恵心僧都により伏見(宇治川北岸)に建立された光明院を起源とする。
寛治年間(1087〜1094)に橘俊綱(藤原頼通の子)が山荘を造営するにあたり、光明院を持仏堂として傍らに移設し、後に山荘を寺院と改めてからは伏見寺または即成就院と呼ばれていた。
宇治川を挟んで向かい側には父、藤原頼通の宇治殿改め平等院が建っており、父子相呼応するような寺院建立の経緯である。
文禄3年(1594)、豊臣秀吉の伏見築城のため、深草大亀谷に移転し、さらに明治時代に至って泉涌寺山内に再興され、即成院と呼ばれるようになった。』


那須与市の宝塔

那須与市の宝塔 なぜ即成院が那須与市さんと呼ばれるかというと、この寺には那須与市の墓と伝えられる、石造宝塔があるからである。
与市の墓とされる宝塔には、外からは参拝することは出来ず、本堂の中を通ってのお参りとなる。
那須与市なる人物は、平安時代末期の武将で、現在の栃木県那須郡の出と云われている。
治承・寿永の乱で、源氏方について戦功を上げ、丹波・信濃に5ケ国を賜っている。
と書くと、与市の人物像がはっきりしないのだが、源平の屋島の戦いで、平氏の軍船に掲げられた扇を弓で射落とすという離れ業を行なった人物だといえば、誰しも与市なる人物が身近にみえて来る。
その扇を射落とした場面を、平家物語(巻第十一の五那須與一の事)では、
『今日は日暮れぬ、勝負を決すべからず』と源平共に兵を引いた所に、立派に飾りたてた小船が一艘、『年の齢十八九ばかりなる女房の……皆紅の扇の、日出したるを』舟竅iふなだな:舷に沿って棚のように渡してある板)に挟み立てて、陸に向かって招きいる。
判官(義経)が『誰かある』と問うと、『下野国の住人、那須太郎資高が子に、與一宗高こそ』と申し、與一が呼ばれこの扇を射ることとなる。
ころは二月十八日酉の刻、『南無八幡大菩薩……』と心に祈念して、『鏑をとってつがい、よっ引いて表と放つ』『鏑は浦響しほどに長鳴して』扇の的を射抜くのである。
『鏑は海に入りければ、扇は空へぞ揚りける。春風に一揉二揉もまれて、海へさっとぞ散たりける』とある。
そんな与市であるのだが、与一は出陣する途中、病に罹ったが即成院に参籠し、本尊阿弥陀如来の霊験で平癒し、屋島の戦いで戦功をたてたので、仏徳に感じて出家し当院に庵をむすび、一生を終えたと伝えられ、即成院に与市の墓所があるのである。


第二番・丈六さんと呼ばれる「弁財天の戒光寺」

戒光寺 法音院の前にあるのが、七福神第二番「弁財天」を安置する、戒光寺である。親しみをこめ、丈六さんと呼ばれている。
戒光寺は、
『御寺泉涌寺塔頭のひとつで、安貞2年(1228)宋から帰朝した曇照忍律上人により八条大宮の東、堀川の西に創建され、後堀川天皇の勅願所となった。
その後、応仁の乱により一条戻り橋の東に移り、更に三条川東を経て正保2年(1645)に現在地に再興された。
本堂に安置される、本尊の釈迦如来(重要文化財)は運慶・堪慶父子の合作で、寄木造の極彩色で宋風をおび、他に例をみない木彫の大仏であり、鎌倉時代の代表作でもある。
首から上の病や悪いことの身代わりになって下さる身代わり釈迦と言われている。身の丈5.4メートル(一丈八尺)、光背と台座を含め約10メートル(三丈三尺)であるが、昔は大きな仏像を「丈六」と呼んでいたことから「丈六さん」として親しまれている。
後陽成天皇の皇后の御信仰や後水尾天皇の守護仏としても深く信仰されて、再び勅願所となり、「身代わり丈六さん」と呼ばれ皇室の御祈願所として栄えた。
また、京都八釈迦の一つに数えられ、嵯峨清涼寺(嵯峨釈迦堂)、大報恩寺(千本釈迦堂)などとともに庶民にも深く信仰されている。
また泉山七福神巡りの一つである弁財天像は最澄の作とされ、融通尊でいかなる願いも必ず成就させるといわれている。』


第三番・恵比須神の「今熊野観音寺」

今熊野観音寺 来迎院から、さらに奥に歩き、その下に川は流れていないが、赤い「鳥居橋」を渡ると『今熊野観音寺』である。
天長年間(806〜833)、弘法大師(空海)が寺を建て観音像を安置したのが始まりとされ、のち斉衡年間(854〜857)に伽藍や僧坊が造られた。
下って、文暦元年(1234)には、後堀河天皇がここに葬送された。
寺域は昔から、ほととぎすの名所として知られている。ここは、近畿十楽観音霊場第一番札所、洛陽三十三所観音霊場第十九番札所、泉山七福神の第3番「恵比須神」を奉祀する 。
今熊野さんの駒札によると、
泉涌寺の塔頭で、正しくは新那智山今熊野観音寺という。西国33箇所観音霊場第15番目の札所になっている。
空海が自ら観音像を刻んで草堂に安置したのが当寺のはじめというが、斉衡(さいこう)年間(854〜857)左大臣藤原緒嗣(おつぐ)が伽藍を造営したとも伝える。
文暦元年(1234)後堀河上皇を当寺に葬るなど、歴朝の崇敬を得て栄えた。
伽藍は応仁の兵火で焼失したが、その後、復興されて現在に至っている。本堂には空海作と伝える十一面観音像を安置する。
寺域は幽静で、郭公(かっこう)鳥の名所として名高く、本堂背後の墓地には慈円僧正・藤原忠通・同長家の墓と称せられる見事な石造宝塔3基がある。


子まもり大師

子まもり大師 境内を入るとすぐに、弘法大師の像と子供がじゃれ合う「子まもり大師」の像がある。
この大師像の周りは、四国八十八ケ所礼状のお砂を敷詰めたもので、「南無大師遍照金剛」と唱え、この像を一回りすると、四国八十八ケ所を廻ったご利益があると云う。
最近、子供の虐待が多く聞かれるが、そんな親にこそ、ここに来て、この像に手を合わせ考えて欲しいものである。


大師堂とぼけ封じ観音

大師堂とぼけ封じ観音 また境内には、弘法大師を祀る「大師堂」と、ぼけを封じるという観音さまがある。
だれしも老いを向かえ、病と呆けにだけはなりたくないと思っているのだが、こればかりは神のみぞの世界であり、
その為に一心に祈りをし、これを避けようと思うのである。



第四番・布袋尊の「来迎院」

来迎院 泉涌寺から今熊野さんに行く途中にあるのが、日本最古の荒神像を祀るという『来迎院』である。
また、泉山七福神の第4番「布袋尊」の札所でもある。
泉涌寺の参道を少し外れ、小さな下道に降り、石の小橋を渡ると、来迎院の山門である。
泉涌寺の参道を少し入っただけで幽玄の世界にでも迷い込んだかのような、静寂の風景が広がるのである。



来迎院の本堂

来迎院の本堂 来迎寺は、弘法大師(空海)が、大同元年(806)に唐で感得した荒神像を安置して創建されたとされる。
その後、数百年を経て、藤原信房が泉涌寺第4世月翁和尚に帰依して一院を興したのが始まりと伝えられる。
しかし応仁の乱で堂塔伽藍は炎上焼失し、荒れるままとなっていた。
その後、天正5年(1577)、織田信長の寄進を受け、また慶長2年(1597)には前田利家が諸堂を再建し、安産祈願の寺として朝廷の信仰を集めた。
荒神堂に安置される木像の「荒神坐像」とその「護法神立像」五躯は、いずれも鎌倉時代に造形されたもので、荒神坐像は胞衣荒神(ゆな こうじん)とも呼ばれ、極彩色の玉眼に唐風の衣冠束帯を身につけ、この種の木像では日本唯一のものという。
荒神堂の傍らに、弘法大師が独鈷をもって穿ったと伝えられる名水『独鈷水』がある。
(空海がその手に持つ金剛杖にて地面を掘ったところ、水が湧き出したという名水、独鈷にて涌き出た水という所から、独鈷水と言われる)


含翠軒

含翠軒 この右奥に、大石内蔵助が建てたといわれる茶室「含翠軒」がある。
忠臣蔵で有名な大石が山科に浪宅を構えたころ、寺請証文(寺の檀家であることを証明する文書)を受けた関係から、大石が寄進した「含翠軒」や大石の念持仏とされる「勝軍地蔵菩薩」をはじめ赤穂浪士に関する遺品を蔵している。
また含翠軒で、元赤穂藩の同士と密議を行ったと伝えられる。
含翠軒にある、含翆の庭と呼ばれる地泉式回遊式の庭園は、秋には見事な紅葉に包まれる。


第五番・歴代天皇の信仰厚い「大黒天の雲龍院」

雲龍院 大門横の楊貴妃観音堂から経堂の横を通り、泉涌寺の塔頭のひとつである「雲龍院」へと向かう。
雲龍院は泉山七福神の第五番「大黒天」を安置するのだが、大国さんというと、大きな袋を肩に掛けとふっくらとした体形でにこやかな面立ちを想像するのだが、ここの大国さんは、走り大国といわれ普通にイメージする大黒さんとは少し違っているようである。
『真言宗泉涌寺派の別格本山である。応安5年(1372)後光厳法皇が竹巌聖皐(ちくがんしょうこう)律師を招いて菩提所(ぼだいしょ)として建立されたのがこの寺のはじまりで、その後、歴代天皇の信仰があつく、たびたびこの寺に行幸されている。
特に後円融天皇(在位1371〜82)は勅願として如法写経会をはじめられ、この法会は現在まで続いている。
寺は応仁の兵火によりいったん焼失したが、後柏原天皇より後土御門天皇使用の御殿の寄進をうけ、本堂として再建し、江戸時代には寺領も多く、来り学ぶ僧侶も多数にのぼり寺運はもっともさかんであった。
後光厳天皇をはじめ歴代天皇の尊牌をまつる霊明殿は明治初年に完成した。宝物には、この寺の歴史にゆかりのふかい土佐光信筆の後円融天皇宸影(重要文化財)をはじめ歴代天皇の宸筆など文書、絵画多数を蔵している。なお、裏山には、仁孝天皇二皇女、孝明天皇二皇女の陵墓が営まれている。』


衆宝観音

衆宝観音 庫裏への途中に、衆宝観音が艶めかしい姿で横たわっていた。
観音様といえば、その姿は優しくて衆生をお救いくださるのだが、この観音様はその姿がみょうに艶めかしく、煩悩が沸々と湧いてきそうな観音様である。
とはいえ、この観音様は羅利の難を救って下さるといい、一人でも祈る人があれば衆生が救われるという有難い観音様なのである。
泉涌寺は真言宗の寺院であり、衆生観音の隣にある「知徳照十方」の球は、知と徳をもって十方を照らすとの、弘法大師(空海)の教えを表しているものである。


第六番・毘沙門天の「悲田院」

悲田院 丈六さんから右手に、小さな道に入り、月輪中学校の塀に沿って道なりに行くと、悲田院の門前にと辿り着く。
悲田院とは、仏教慈悲の心で、貧しい人や孤児を救うための施設として作られたもので、古くは、聖徳太子が浪速の四天王寺に建立したのが、日本最初のものと言われている。
今でいう、福祉施設のようなものであり、その後、延慶元年(1308)に、無人和尚が一条安居院に再興し、四宗兼学の寺とした。
後花園天皇は悲田院を勅願寺とし、崩御のときの遺言で、この寺にて御葬儀や荼毘が行なわれた。これにより、悲田院の住職は代々天皇の綸旨を賜わり御所への参内が許された。
正保3年(1646)、高槻城主・永井直清が現在地に移し、如周和尚を迎えて住持としたのが現在の悲田院である。
そしてこの寺は泉山七福神の第六番「毘沙門天」を安置する寺として、除災招福の仏として広く信仰されている。


悲田院からの眺め

悲田院からの眺め 悲田院からは京の市街が一望出来るのである。
京都タワーから、東山の後ろに見える、比叡山までがパノラマ写真のように見える。
京都駅ビルと京都タワーがみえ、中央より少し右に、東本願寺がある。後ろの山は、愛宕山である。
鴨川の流れと金閣寺が見えているはずだが、遠すぎてよく分からない。
京都国立博物館と、京都ホテルオークラの建物が見え、東山にある京都女子大が、その後ろの山に清水寺があり、さらにその後ろ、少しだけ山の頂上が見えるのが比叡山である。


第七番・泉山七福神の「寿老人の法音院」

法音院 即成院から泉涌寺の総門を入り、少し行くと右手に、泉山七福神の第七番「寿老人」を安置する、法音院がある。
法音院は、鎌倉の末期、嘉暦元年(1326)に無人如導宗師によって建立される。
その後、応仁の乱の兵火により焼失し衰退をするのだが、江戸初期の寛文4年から5年(1664〜65)に、覚雲西堂によって現在の地に再興される。
法音院はまた、洛陽三十三観音札所の第二十五番霊場でもあり、また京都七福神の第七番「寿老人」を安置する寺院でもある。
洛陽33ケ所とは、平安時代末期に、後白河法皇が定めたと伝えられる観音さまで、
室町時代の永享3年(1431)には、行願時に始まり、北野天満宮に終る札所が定着していたが、応仁の乱でいくつかの札所が廃絶したが、
江戸時代の始め、寛文5年(1665)に霊元天皇の勅令で再興され、1番の六角堂に始まり、33番の清和院で終わる33ケ所が定められ、今に続いているのである。
33ケ所の観音霊場は、半分位訪ねたことがあるのだが、観音巡礼の霊場とは知らず、今度は観音巡礼として1番から廻ってみようと思っている。


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