京の三庚申

庚申とは干支(えと)の組み合わせを云い、庚(かのえ)申(さる)の日を意味する。
その日は三尸(さんし)の虫が騒ぎだし、人間の寿命を縮めるといい、庚申待をして夜をあかす。そんな庚申信仰に関わる、京の三庚申を紹介しよう。
干支は、十干(じっかん)と十二支の組み合わせで、
十干とは、『甲(きのえ)・乙(きのと)・丙(ひのえ)・丁(ひのと)・戊(つちのえ)・己(つちのと)・庚(かのえ)・辛(かのと)・壬(みずのえ)・癸(みずのと)』で、
十二支とは、『子(ね)・丑(うし)・寅(とら)・卯(う)・辰(たつ)・巳(み)・午(うま)・未(ひつじ)・申(さる)・酉(とり)・戌(いぬ)・亥(い)』である。
庚申の日の夜に眠ると、人間の身体の中に居る三尸(さんし)の虫が抜け出して、天帝にその人間の悪行を告げに行き、天帝は罰として、その人間の寿命を縮めると云う。
そのために、庚申の夜は三尸の虫が出ないように、一晩中眠らずに過ごすのであり、これを「庚申待」という。
地域で集って庚申待ちをする「庚申講」などをつくり、庚申の夜を明かすという風習などもあり、この日は男女同床してはならないとされ、この日結ばれて出来た子は盗人になると云われ恐れられている。
三尸(さんし)とは、道教に由来するとされる人間の体内にいる虫で、上尸・中尸・下尸の三種類があり、上尸の虫は道士の姿、中尸の虫は獣の姿、下尸の虫は牛の頭に人の足の姿をしているとされ、大きさはどれも2寸で、人間が生れ落ちるときから体内にいるとされる。

参照:【wiki三尸(さんし)とは】より
庚申では、三尸の虫を食べるという「青面金剛」を本尊とし、猿が庚申の使いといわれ、庚申塔には「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿が祀られる。
また三尸の虫が嫌いなコンニャクを食して、庚申の夜を明かすのである。


八坂庚申堂「金剛寺」

金剛寺 東大路通の「東山安井」でバスを降り、八坂の塔へと続く八坂道を登ると、日本最初の庚申信仰となった『八坂庚申堂』がある。
八坂庚申堂は、大黒山金剛寺庚申堂と号し、大阪四天王寺の庚申堂、東京入谷の庚申堂(現存せず)と並び日本三庚申の一つで、御本尊青面金剛は飛鳥時代に中国大陸より渡来した秦河勝により秦氏の守り本尊として祀られた。

平安時代、当代随一の験者であった浄蔵貴所が、すべての人々がお参りできるよう、八坂の地に当寺を建立したのが、いまから千年以上も昔のことである。
以後、日本最初の庚申信仰の霊場として信仰を集めており、現在の本堂は江戸時代・延宝6年(1679)の再建になるものである。

出典:【八坂庚申堂HP(庚申堂由緒)】より
八坂の庚申堂には「くくり猿」という猿を模したものが祀られている。
これは庚申の日に三尸(さんし)の虫が出てこれぬようにと、手足を縛られているものなのだが、庚申の日に三尸の虫が世に出たいという欲望と、人間の内に潜む要望行動を抑えるということを、この「くくり猿」に叶えてもらうという、願掛けの一種だという。
そんな願いを込めた「くくり猿」が本堂前にこれぞとばかりに、ぶら下げられている。
人の煩悩とは、なかなかに断ち切れないものである。


粟田口庚申堂「尊勝院」

尊勝院 京の三庚申の二つめは、粟田口にある尊勝院の『粟田口庚申堂』である。
ここには「神宮道」で降りるのが近いので、京都駅から5系統の市バスに乗り、「東山三条」の次の「神宮道」で降りたのだが、目の前に平安神宮の大鳥居が見えた。
「神宮道」で降りて平安神宮の鳥居など見えるはずがないと思っていたのだが、実は自分が地図上で見た三条通にある「神宮道」は市バスではなく、京阪バスの停留所で、市バスはここには止まらないのである。
市バスは三条通を出ると神宮通を左に曲がり、まさに平安神宮の鳥居が見える場所で止まるのである。ここから随分と遠回りをして尊勝院へと向かうこととなるのだが・・・
やっと「尊勝院庚申堂参道」と刻まれた道標の石碑をみつけ、参道を尊勝院へと登ってゆく。
ここは東山一周トレイルの一つの出入り口でもある。
途中に、京都ホテルオークラ別邸「粟田山荘」がある。粟田山荘の前の細い道を登ってゆくと「尊勝院」である。
尊勝院は、元三大師(がんさんだいし良源は、第18代天台座主で、比叡山中興の祖として知られ、お御籤を日本で初めて考えた人物である)を本尊とした寺で、青蓮院の塔頭である。
ここが三庚申の一つとされるのは、三尸(さんし)の虫を食べる「青面金剛」を祀り、その使いとされる「不見・不聞・不言」の三猿が安置されていることからである。
また本堂には「米地蔵」が祀られており、この地蔵に参拝すると一生食べるに困らないという伝えがある。
本堂横の駒札には、
『尊勝院は天台宗に属する寺院で、保延年間(1135〜41)に、陽範阿闍梨が比叡山横川に尊勝坊を開創したことに始まり、その後青蓮院三条白川坊の裏に移されたと伝える。
また応仁の乱により荒廃したが、文禄年間(1592〜1596)に豊臣秀吉によって本堂が再建されたという。
江戸時代には、本堂は元三大師を本尊として南面して建っていたことから、南面大師堂あるいは元三大師堂とも呼ばれていた。
大正4年には、寺地が現在地へ移転されたが、その際に建物は本堂のみが移された。
現在の本堂は、桁行三間、梁行四間の規模で正面一間通りを外陣、奥寄りの方三間を内陣とし、内陣には中央に四天柱を立てて、背面に仏壇を間口いっぱいに設けて本尊元三大師像を祀る厨子を安置する。
史料を欠くために造営年代を明らかにすることはできないが、内陣の四天柱内の細部様式は桃山時代まで遡るものと判断される。
この本堂は、桃山時代まで遡るものと考えられ、その後、幾度かの修理によって大きく改造されているところがみられるものの、内陣は常行三昧堂の形式である一間四面堂の構成で建てられ、また極彩色が施されて桃山時代の趣がよく残されている小規模ながら、古式で上質の建物である。』

出典:【尊勝院本堂一棟の駒札】より


山ノ内庚申「猿田彦神社」

猿田彦神社 京の三庚申の三つめは、右京区山ノ内にある、『山ノ内庚申』である。
ここは嵐電の「山ノ内」から西に400mの所にある。京都駅からは、京都バスの71〜74系統に乗り「庚申前」で降りる。
山ノ内庚申とも言われ、京洛中三庚申の一つである。
京の三庚申とは、東山区金園町、八坂の塔へ続く八坂道を登るとある「八坂庚申堂」と、東山区粟田口北町にある「粟田庚申堂」、そして「山ノ内庚申堂」と言われる「猿田彦神社」で、道ひらきの神、人生道案内の神として古くから信仰を集めている。
猿田彦神社の由緒記によれば、 『当社は山ノ内庚申と言い、京洛三庚申の一社に数えられ、洛西の旧社として著名なお社である。
古図によれば三条通り側に鳥居があり参拝したと言われる。
猿田彦大神は道ひらきの神、人生の道案内の神と崇められ、開運除災、除病招福の御神徳を以て世に知られている。
見ざる、言わざる、聞かざるの三神猿は、世の諸悪を排除して開運招福をもたらす崇高な御神教を示すものである。
庚申祭りは、平安時代より十干十二支の庚申(かのえさる)の日に祀り、江戸時代に至り庚申待、庚申講と言い村人が集まり猿田彦大神、清面金剛のお軸を掛け、七種の供物を捧げ夜を明かして萬福招来を祈願したのである。
現在も六十日に一回の庚申日にお祭りをしている。新年初めの庚申日には、近郷近在より除災招福を祈り参詣する信者はあとをたたない。
御社殿はもと安井村松本領にあって境内には山伏修験者の行者があり愛宕詣りをする人々は滝に打たれ身を浄めて参詣したものである。
明治18年現在の地に移築されたが、行場の名残をとどめる大小無数の石が境内北側に存在し、火伏の神、秋葉明神、南側には不動明王、観世音菩薩地蔵尊えお祀る。
昭和55年は、六十年ごとに迎える庚申の年に当り、御神殿修復中礎石に使用されていた道標に刻まれた「あたごへ二里半」の文字に往時を偲ぶことが出来る。』

出典:【山ノ内庚申 猿田彦神社 由緒略記の駒札】より


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