鷹ケ峰|洛北界隈

鷹ケ峰 ずいぶん昔に、鷹ケ峯の然林房という処に精進料理を食べに行ったことを思い出した。
その記憶が鷹ケ峯の何処であったのか、また本当に然林房という処だったのかも、遠い記憶の外になってしまったのだが、
今回はそんな古い記憶をたどりながら、鷹ケ峯を歩いてみようと思う。

鷹ケ峯には、北大路バスターミナルから出るバスに乗るといいのだが、「神光院前」でバスを降り、ここから神光院や正伝寺を巡り、鷹ケ峯へと歩いてみようと思う。


アクセス
京都駅から
▼「B1」乗り場から9系統で『神光院前』下車(所要43分)


鷹ケ峰を歩く

■ 神光院前(バス停)

徒歩3分

神光院

神光院 神光院前のバス停から、南にすぐの所に「神光院」がある。
神光院は京でも知る人は少ないのだが、東寺と仁和寺と並んで「西賀茂の弘法さん」と呼ばれる、京の三大弘法として有名な寺である。

徒歩5分

西賀茂大将軍神社

神光神社から南西に200mほど歩くと「大将軍社」の石碑が建つ。
この石碑がある四つ角を南に行くと、大将軍神社である。

徒歩11分

正伝寺

正伝寺 西賀茂の鷹ケ峰一帯は、東海道自然歩道となっていて、所々に案内板が立っている。
道しるべに沿ってさらに歩いてゆくと、正伝寺の山門がみえる。
「吉祥山 正伝護国禅寺」と刻まれた石塔が建ち、ここが正伝寺であることが分かる。

徒歩4分

西加茂の法雲寺

正伝寺でひとときの安らぎを得て、山門を出る。今来た道を引き返そうかとも思ったのだが、山門を出てすぐ右に道を取った。
2分ほど歩くと、山の手に大きな白い石像が見えた。

徒歩5分

大船院西方寺

西方寺 正伝寺の山門を出、法雲寺を過ぎ、鎮守庵公園を越えると、「大船院西方寺」がある。




徒歩20分

尺八池

西方寺を出て南に7分、寿司海老重がある角を右(西)に曲り6分ほど歩くと、一ノ井二号橋という橋があり、そこから川に沿って、さらに7分ほど山道を歩くと、尺八池となる。

徒歩10分

寂光山常照寺

八池から釈迦谷口のバス停まで下る。

徒歩3分

源光庵

常照寺から南西に3分ほどのところに「源光庵」がある。
源光庵は、大徳寺2代の徹翁義亨(てつとうぎこう)により開かれ、のち曹洞宗に改められる。

徒歩1分

遣迎院

源光庵の斜め前に、武家屋敷風の長屋門がみえる。
長屋門をくぐると何があるのだろうかと見ていると、ここは浄土真宗遣迎院派の本山であるという。

徒歩2分

円成寺

円成寺 遣迎院から西に、鷹峯小学校の横に「岩戸妙見宮」と刻まれた石碑がある。
円成寺本堂背後の妙見堂に妙見菩薩の石像が祀られていることから、円成寺は岩戸妙見の異名もある。


徒歩1分

光悦寺

鷹ケ峯といえば、徳川家康が本阿弥光悦に野屋敷として、ここに土地を与え、光悦一族がここに移り住み、一大芸術村となった土地である。

徒歩2分

■ 鷹峯三山

鷹峯三山 光悦寺からは西南の方角に、鷹峯三山が眺まれる。
鷹ケ峰の地は、金閣のある衣笠の山々が北に伸びて北山と接する辺りで、京七口の一つ長坂口から丹波・若狭へと続く鯖街道の入口にあたる所である。
その鷹ケ峰にそびえるのが、東から鷹峯(鷹ケ峰、たかがみね)、鷲峯(鷲ケ峰、わしがみね)、天峯(天ケ峰、てんがみね)と呼ばれる鷹峯三山である。
その姿は昔より多くの人に親しまれ、花札の芒(すすき:俗に坊主ともいう)の絵柄は、この鷹峯の山を表したものだという。
ちなみに鷹峯三山は、大文字山から北方につながっており、山自体は金閣のある衣笠の地にある。

■ 然林房

然林房 光悦寺から然林房の前に出る。前にこの鷹ケ峯を訪ねたのは、今から随分と昔、記憶が遠くの彼方に霞んでいるのだが・・・
若い頃に会社の職場で、光悦寺の紅葉を見てから、然林房だったのかそれとも何処かの宿坊だったのか、昼に弁当を食べたという薄い記憶が残っている。
こんなホテルがあったのかということも思い出すことが出来ないでいる。

徒歩3分

■ 急坂を紙屋川へと

急坂を紙屋川へと 然林房の前から鷹峯三山を左に見ながら、紙屋川に勾配21%という急坂を下る。
天気の日にはなんとか降りられるが、雨が降った時などはよほど注意しないと滑ってしまうし、雪がちらつくとこの坂は下りることが出来ない。
そこを車が下りてくる。よくもこんな坂を下りれるものだと思うのだが・・・
この坂を下ると、そこは紙屋川沿いの道となり、人も車も殆ど通ることのない静寂の世界に浸ることができる。

徒歩10分

しょうざん光悦芸術村

紙屋川に沿って下流へと歩くと、着物メーカの「しょうざん」が開いた複合施設「しょうざん光悦芸術村」がある。

徒歩6分

鷹ケ峯のお土居

豊臣秀吉が京の都を改造したときに、洛の内外を区分するために造ったのが、お土居である。
今はその殆どが取り壊されて、僅かに西賀茂・鷹ケ峰・北野などに残るのみとなっている。

徒歩1分

■ 御土居餅の都本舗光悦堂

都本舗光悦堂 御土居餅の由来を栞にみると、
『天正19年(1591)豊臣秀吉が長い戦乱のため荒れていた京都に都市計画を行ったとき、外敵の来襲にそなえ、その防塁として築いたのが土塁(土居)です。
東は賀茂川、西は紙屋川、南は九条、北は鷹峯と延長23Kmにおよび、これによって京都8ケ所が京都の沿革を知るうえに、又、広くわが国における都市計画の発達を知るうえにきわめて重要な遺跡として史跡に指定されています。
其の土塁(土をもって囲ったお土居にみたてた)にちなんで江州米上質の羽二重餅に小豆を包みきな粉をふりかけ、あたかも小さな土塁にみせかけて、美味しく作り上げました。』
出典:【鷹峯名物 御土居餅の由来】より

徒歩2分

■ 鷹峯上ノ町(バス停)

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