応仁の乱をゆく|下鴨・上賀茂界隈

応仁の乱をゆく 応仁の乱は、室町時代の応仁元年(1467)に始まり、11年後の文明9年(1477)まで、天下を二分して戦われた騒乱である。
この乱により、京の町は灰燼にきし多くの建造物や重要な文化財が焼失してしまい、まさに京の町は壊滅的打撃を受け荒廃をしてしまうのである。
その応仁の乱の端緒となった地から、西軍が陣を敷いた西陣までの、応仁の乱にゆかりの地を歩いてみる。


アクセス
京都駅から
▼「A2」乗り場から205系統または「B2」乗り場から101系統で
 『北大路バスターミナル』下車(所要40〜46分)
▼地下鉄烏丸線で『鞍馬口』下車(所要11分)


応仁の乱を歩く

■ 北大路バスターミナル(バス停)

徒歩15分

■ 鞍馬口

徒歩3分

■ 応仁の乱勃発地

応仁の乱勃発地

文正2年(1467)の正月18日早朝に、畠山政長が兵二千を率いてこの地に布陣、それに対して家督相続を争う畠山義就が兵三千を率いて攻撃を仕掛けたのである。
この年の三月に年号が「応仁」に改まると、細川勝元、山名宗全とも兵を集め全面的な戦いに突入するのだが、畠山家の相続に端を発し、政長に細川がつき、義就に山名がつき、それに将軍の後継をめぐり、夫々思惑を持つ武将達が東西の軍に別れて、日本を二分して戦が行なわれたのである。
時は室町幕府、8代将軍足利義政の時代である。

徒歩1分

御霊神社

御霊神社

恨みを残したまま亡くなった人が怨霊となり、人々に祟る事象を鎮めるために、貞観5年(863)に創始された。



徒歩5分

■ 旧 成安女子高

徒歩1分

■ 相国寺

徒歩9分

■ 同志社大学

徒歩1分

■ 今出川御門

今出川御門

同志社の向かいには、京都御所の今出川御門がある。京都御苑の北側にある門で、今出川通に面していることから、その名が付いた。



徒歩6分

足利将軍室町第址(花の御所)

徒歩6分

三時知恩寺

同志社新町校舎の前にあったのが、名を「三時知恩寺」と云う、浄土宗の門跡寺院(尼寺)で、応永年間(1394〜1428)見子内親王が、一条西洞院にあった入江殿を寺に改めたのに始まる。

徒歩3分

持明院仙洞御所跡(光照院)

室町通を北に上がり、上立売通を過ぎ右手に室町小学校が、見えると、そこが寺之内通である。
寺之内通を西に、寺之内通新町下るに「持明院仙洞御所跡」の石碑がある。

徒歩3分

妙顕寺

寺之内通に戻ると、久本寺、大妙院、十乗院、恵命院、本妙院とお寺が並ぶが、その向いに妙顕寺というお寺がある。
妙顕寺は、元亨元年(1321)に日像が後醍醐天皇の勅願により、京都における日蓮宗最初の道場として建立した。

徒歩2分

■ 百々橋の戦い

 百々橋の戦い

小川(こかわ)を挟んで、北に細川、南に山名が向かい合い、両軍の数2万とも3万とも、相方合わせ5万有余の大軍がこの川を挟み対峙した。
唯一通れるのが百々橋で、相方会い睨みあい、山名が仕掛けるも細川が応戦、南北に流れ幅4mの小川を挟んで、東軍細川、西軍山名の軍が百々橋を越えるために死力を尽くした。
応仁の乱で激戦とされた百々橋の戦いの跡なのだが、今は川も無く橋も無く、その跡に橋を支えていた礎石が残っているのみである。

徒歩1分

宝鏡寺

宝鏡寺 「宝鏡寺門跡」と寺碑があったが、皇室にゆかりのある女人が、寺の住持を務めた寺ということで門跡という。
ぐり戸から一歩中に入ると、世俗の人達を排するかのように人一人いなく、京の観光とは一線を画したような静かな境内であった。

徒歩5分

山名宗全邸址

徒歩3分

■ 堀川寺ノ内(バス停)


■ 西陣

 西陣 応仁の乱は、東軍西軍入り乱れての大乱だったのだが、その発端は、単なる家督相続の身内どうしの争いだったのである。
身内の争いといえば、東軍の細川勝元は山名宗全の娘婿であり、ここでも身内どうしで戦うことになったのである。
確固たる名目もなく始まった戦が、誰止めるともなくだらだらと11年も続くとは誰も思いもしなかったであろう。
山名と細川が亡くなり、西の雄、大内氏が軍を引き上げるに及んで、なんとなく始まった応仁の乱は、なんとなく幕が下ろされたということとなった。

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