幕末を偲ぶ|洛中界隈

蛤御門 四条通と河原町通が交差するのが「四条河原町」
西にアミュズメントセンター的な「新京極」、東は夜の帳が下りると、その姿を一変する木屋町をかかえ、木屋町の東の狭い通りは先斗町の花街である。
しかし幕末の頃は、この界隈には維新の志士たちが潜み住んだ所や志し半ばで非業の死をとげた所などが点在しており、木屋町を流れる高瀬川に沿って、四条から三条へと志士を偲び、その旧跡を歩いてみる。


アクセス
京都駅から
▼「A1」乗り場から5系統、または「A2」乗り場から4・17・205系統で、
 『四条河原町』下車(所要11〜17分)


志士を偲び四条から三条に

■ 四条河原町(バス停)

徒歩3分

古高俊太郎邸「枡屋」跡

四条河原町から三条に向い(北に)一つ目の筋を東に入ると、勤皇の志士、古高俊太郎が商い兼住居としていた「枡屋」が在った場所である。
現在は、和食の老舗である「志る幸」が営業をしており、東に抜けると木屋町通となる。
この人物が新撰組に捕えられたことが、池田屋事変への端緒になったと云われている。

徒歩2分

中岡慎太郎寓居跡「菊屋」

中岡慎太郎 再び河原町通に出、少し北へ歩くと中岡慎太郎が隠れ住んだ処がある。
河原町通四条上ル東側のこの場所には、今「京都像」という名の、あぶらとり紙専門店が店を構えている。


徒歩2分

龍馬・慎太郎遭難之地「近江屋」跡

中岡慎太郎が隠れ住んだ「菊屋」の跡から、河原町通を北に100m程歩く河原町通蛸薬師下ルに、坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺された「近江屋」の跡がある。
店の前に「坂本龍馬・中岡慎太郎遭難之地」との石碑が建っている。
醤油商を営む、近江屋井口新助宅の母屋二階奥八畳の部屋で、才谷梅太郎と石川清之助が京都見廻組によって暗殺されたのは、歴史に興味のない人でも知っている
のだが、その近江屋がここに在ったのである。

徒歩3分

土佐稲荷・岬神社

近江屋跡から蛸薬師通を木屋町へと歩くと、蛸薬師通河原町東入ルに「土佐稲荷・岬神社」がある。

徒歩3分

■ 坂本龍馬像

坂本龍馬像 土佐稲荷・岬神社社殿の横に坂本龍馬の小さな像が在るのだが、昨年(2009年1月)に見たこの銅像は、原形が分からないくらいに欠けていた。
思うに、この像のかけらを持っていると、「願いがかなう」「恋の想いがかなう」ということが噂となり、龍馬さんの像を欠いて持っていく人が絶えないのであろう。
龍馬さんもこのごになって、とんだ災難を被ったものである。 ところが、2010年1月に行ってみると、龍馬さんの銅像が新しくなっており、高知の桂浜にある坂本龍馬像の姿で建っていた。
いくら「願望成就」や「恋愛成就」するといっても、龍馬さんの銅像をどうか壊して持って帰らないようにしておくれやす。

徒歩1分

土佐藩邸跡

河原町通蛸薬師下ルにあった近江屋から、龍馬・慎太郎襲撃を知らせに井口新助は、蛸薬師通を東に、土佐稲荷岬神社の前を通り、高瀬川に架かる蛸薬師橋を渡り、土佐藩邸へと走ったのである。
木屋町通から高瀬川を渡った西側、河原町通に至る間の元立誠小学校の辺りが、江戸時代の始めから明治4年(1871)まで、土佐藩山内家の京都藩邸があった処である。

徒歩1分

本間精一郎遭難の地

高瀬川に架かる通蛸薬師橋を超え、土佐藩邸跡を
右に見て、木屋町通を南に、紙屋橋の向かい側に、本間精一郎が斬殺された場所がある。

徒歩4分

彦根藩邸跡

彦根藩邸跡 土佐藩邸跡の横の蛸薬師橋を渡り、高瀬川の西岸にある西木屋町通を北に歩くと、山崎橋のたもとに「彦根藩邸跡」の石碑が建っている。
彦根藩は徳川譜代の大名で、関ヶ原での勲功により井伊直政が石田三成の居城、佐和山城に入ったことに始まる。
以降、一度も転封されることなく、初代直政から十六代直憲まで彦根を治め明治維新を向えている。

徒歩2分

■ 河原町三条(バス停)

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