壬生|洛中界隈

壬生をあるく 壬生は、新選組とは縁が深い所である。
新選組は幕末の京都で、勤皇の志士たちの取締りに当った、会津藩支配の軍事組織である。
内にあっては粛清を繰り返し、一説によると斬り合いで亡くなったものより多かったという。
その新選組を一躍有名にしたのが、三条池田屋事件である。この頃が新選組の絶頂期であり、以降、鳥羽伏見の戦いから戊辰戦争へと凋落の一途を辿っていく。
新選組が壬生浪士と言われた頃から、絶頂期を過ごしたのがこの壬生であり、滅びの美学ともいえる新選組の跡をたどってみよう。


アクセス
京都駅から
▼「B4」乗り場から26系統または「D3」乗り場から28系統
『壬生寺道』下車(所要15〜19分)


壬生を歩く

■ 壬生寺道(バス停)

徒歩5分

■ 元祇園梛神社

元祇園梛神社

この神社は、四条の八坂神社が創建された時に神霊を遷祀した神社であり、元祇園社と呼ばれる。
神霊を八坂神社に移すときに、鉾や傘を立て、神輿を八坂に送ったのが「祇園会(祇園祭)」の始まりと云われている。
また、ここは「朱雀院」が院政を敷いた所としても知られている。

徒歩2分

旧前川邸

この屋敷は新選組の創設当初から、池田屋事件を経て、西本願寺に移るまで新選組屯所として使われていた。
個人の住宅で内部の見学は出来ないが、その当時のままの外観を見るだけでも、新選組がここに居たということを肌で感じとることが出来る。

徒歩1分

八木邸

前川邸と道一つ隔てたところに八木邸がある。
文久3年(1863)2月に入洛し、芹澤鴨、近藤勇、土方歳三などは京都警護の為に、壬生の地で新選組と名乗り、この八木邸を屯所として使用することになる。

徒歩1分

壬生寺

壬生寺

正暦2年(991)に快賢僧都が母の菩提を弔うために建立したとされる律宗(本山は奈良の唐招提寺)の寺院であり、正応年間(1288〜92)中興の円覚上人が仏教の教えを優しく伝えるために始めた、大念仏狂言を伝える寺で、今では「壬生狂言」として演じられ継承されている。

徒歩3分

■ 肥後藩屋敷跡

徒歩5分

■ 光縁寺

光縁寺

創建は、慶長18年(1613)頃といわれ、門前に新選組の馬小屋があったことから、隊士の行き来も多く、特に副長の山南敬助と住職の良誉上人と深交があったことから、山南を始めとして、亡くなった隊士を埋葬し弔ったのである。
隊士を弔った墓石は27体あるのだが、勤皇の志士との斬り合いで亡くなったのか、粛清で詰め腹を斬らされたのか、当時の姿は思い起こすよすがもないが、確実に、新選組はこの壬生の地に歴史の一石を投じたといえる。

徒歩4分

■ 四条大宮(バス停)

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