幕末の風|洛中界隈
四条から御池橋まで来、さらに丸太町橋までの間には長州藩のかおりが色濃く残る。
四条通から始め、維新の足跡を「維新を偲ぶ」「維新の息吹」「維新の風」と幕末を感じながら、訪ねてきたが、
高瀬川から三本木界隈では今でも、路地の奥から龍馬や慎太郎が現れたり、新選組に追われる志士たちの足音が聞こえてくるようで、それを感じながら幕末の思いに巡らすことが出来るのである。
アクセス
京都駅から
▼「A1」乗り場から5系統、または「A2」乗り場から4・17・205系統で、
『河原町三条』下車(所要13〜20分)
三条小橋から御池橋までを歩く
■ 河原町三条(バス停)
河原町通を走る市バスは「四条河原町」に停まると、次は「河原町三条」そして「京都市役所前」となる。
この間に、御池通があるのだが「河原町御池」というバス停はない。これは、河原町三条のバス停は、三条通と御池通の調度中間にあり、三条といっても御池といってもいいようなバス停なのである。
徒歩3分
この間に、御池通があるのだが「河原町御池」というバス停はない。これは、河原町三条のバス停は、三条通と御池通の調度中間にあり、三条といっても御池といってもいいようなバス停なのである。
徒歩3分
■ 長州藩屋敷跡
河原町通を御池までくると、通りを越した右側に「京都ホテルオークラ」が見えてくる。
この場所が、長門国萩藩毛利氏の京都藩邸(長州屋敷跡)が在った処である。
徒歩3分
この場所が、長門国萩藩毛利氏の京都藩邸(長州屋敷跡)が在った処である。
徒歩3分
■ 佐久間象山・大村益次郎遭難之碑
木屋町御池上ルに佐久間象山遭難之碑が建つ。
隣には明治2年(1869)に木屋町三条の旅館で不平士族に襲われ亡くなった、大村益次郎の遭難碑も建っている。
佐久間象山は長野松代藩の人で、幕末の洋学の第一人者であった。
江戸のお玉が池に、私塾「象山書院」を造り、吉田松陰をはじめ、小林虎三郎や勝海舟、河井継之助、坂本龍馬、橋本左内、加藤弘之など、後の日本を担う人物が多く学んでいた。
元治元年(1864)に入洛し、公武合体と開国を一橋慶喜に説いた。しかし勤皇の志士からは西洋かぶれとみられており、同年7月11日に三条木屋町を歩いていた時に刺客の手に掛かって53才で暗殺される。
徒歩1分
隣には明治2年(1869)に木屋町三条の旅館で不平士族に襲われ亡くなった、大村益次郎の遭難碑も建っている。
佐久間象山は長野松代藩の人で、幕末の洋学の第一人者であった。
江戸のお玉が池に、私塾「象山書院」を造り、吉田松陰をはじめ、小林虎三郎や勝海舟、河井継之助、坂本龍馬、橋本左内、加藤弘之など、後の日本を担う人物が多く学んでいた。
元治元年(1864)に入洛し、公武合体と開国を一橋慶喜に説いた。しかし勤皇の志士からは西洋かぶれとみられており、同年7月11日に三条木屋町を歩いていた時に刺客の手に掛かって53才で暗殺される。
徒歩1分
木屋町御池上るにある料亭「さつき」ここはもと長州藩の控え屋敷で、維新の後は大村益次郎が常宿として使用していたところである。
徒歩1分
徒歩1分
■ 料亭「幾松」
料亭「幾松」は長州藩の控え屋敷として建てられたもので、木戸孝允、その名を桂小五郎といい、三本松の芸者、幾松と共に住んでいた跡である。
幾松はなかなかの美人だったとかで、多分、桂が一目惚れしたのではないだろうか。
桂小五郎の想われ人、幾松は木戸松子としてその生涯を幸福に暮らしたのに比べ、坂本龍馬のお龍さんは、龍馬が暗殺されたことで明治の華にはなることが出来ず、不遇な生涯を過ごすことになったのであるが、人の人生とは紙一重で幸と不幸がおそってくるのであろう。
徒歩1分
幾松はなかなかの美人だったとかで、多分、桂が一目惚れしたのではないだろうか。
桂小五郎の想われ人、幾松は木戸松子としてその生涯を幸福に暮らしたのに比べ、坂本龍馬のお龍さんは、龍馬が暗殺されたことで明治の華にはなることが出来ず、不遇な生涯を過ごすことになったのであるが、人の人生とは紙一重で幸と不幸がおそってくるのであろう。
徒歩1分
二条から四条までの間に九つの舟入があったが、唯一現存するのがこの一之舟入である。
徒歩1分
徒歩1分
■ 角倉了以屋敷跡
高瀬川を開墾した角倉了以の屋敷が木屋町通りのこの辺りにあった。
■ 押小路通
一之舟入の碑が建っている横の通りが「押小路通」で、東はこの一之舟入がある木屋町から堀川にある二条城の横を通り、千本通までの東西の小路となっている。
徒歩1分
徒歩1分
創業地の碑と島津創業記念資料館が、木屋町二条の角に建っている。
徒歩1分
徒歩1分
■ 高瀬川源流
高瀬川は鴨川の水を引き入れて運河をなしているのだが、調度このあたりが高瀬川の源流となっている。角倉了以の別邸だったこの庭苑を、鴨川からの水が通り木屋町を潜って一之舟入に出るのである。
今、がんこ二条苑と料亭になっているこの庭苑は、角倉了以から山縣有朋の別荘、第二無鄰庵となり、この時に名庭師の小川治三郎の手が入っている。
その後、川田日本銀行総裁、阿倍首相の別邸と変遷し、今、料亭として、がんこ寿しの所有で、第二無鄰庵跡または高瀬川源流庭苑となっている。
徒歩4分
今、がんこ二条苑と料亭になっているこの庭苑は、角倉了以から山縣有朋の別荘、第二無鄰庵となり、この時に名庭師の小川治三郎の手が入っている。
その後、川田日本銀行総裁、阿倍首相の別邸と変遷し、今、料亭として、がんこ寿しの所有で、第二無鄰庵跡または高瀬川源流庭苑となっている。
徒歩4分
■ 桂小五郎銅像
押小路を河原町通までくると、ホテルオークラの建物がある。
この場所はもと長州藩の屋敷があった所で、そのホテルの一画(河原町通に面した場所)に桂小五郎の銅像が建っている。
(実物は座っているのだが(笑))
徒歩1分
この場所はもと長州藩の屋敷があった所で、そのホテルの一画(河原町通に面した場所)に桂小五郎の銅像が建っている。
(実物は座っているのだが(笑))
徒歩1分
■ 京都市役所
桂小五郎が見ているその視線の先に、京都市役所の建物がある。
河原町御池の角で、昭和2年(1927)に竣工した、大正から昭和初期の息吹を感じさせる建築物である。
徒歩4分
河原町御池の角で、昭和2年(1927)に竣工した、大正から昭和初期の息吹を感じさせる建築物である。
徒歩4分
■ 間部詮勝寓居跡
鴨川の畔から京都市役所を見て、寺町通を北に入る寺町通押小路上ルに「間部詮勝(まなべ あきかつ)寓居跡」の石碑が建っている。
もともとこの地には昭和43年(1968)まで、天正年間以来400年に亘り、顕本法華宗の本山妙満寺があった。
徒歩2分
もともとこの地には昭和43年(1968)まで、天正年間以来400年に亘り、顕本法華宗の本山妙満寺があった。
徒歩2分
寺町通の間部詮勝寓居跡から北に少し行き、二条通を東に入ったところ辺が、長州藩士吉田稔麿(としまろ)が定宿としていた塩屋兵助方があった処である。
東に入ったところ辺と曖昧な表現だが、実はその跡を標すものは何もないのである。
徒歩3分
東に入ったところ辺と曖昧な表現だが、実はその跡を標すものは何もないのである。
徒歩3分
■ 菊野大明神
二条通を東に、河原町通に出て二条上ルの清水町に法雲寺という寺院がある。
庫裏の東に「菊野大明神」が祀られている。
徒歩3分
庫裏の東に「菊野大明神」が祀られている。
徒歩3分
■ 舎密局跡
菊野大明神から河原町通を北に少し、夷川通を東に入り一つ目の角に「銅駝美術工芸高」がある。
この場所は明治の始めに「舎密局(せいみきょく)」があった処である。
徒歩2分
この場所は明治の始めに「舎密局(せいみきょく)」があった処である。
徒歩2分
■ 木戸孝允邸跡
舎密局から北へ歩き、河原町通竹屋町東入ルに、石長松菊園という旅館がある。
この辺り一帯が木戸孝允邸の跡であり、この地にて病没している。
現在、京の老舗旅館「石長本館松菊園」の玄関前に【木戸孝允旧邸跡】の石碑が建つ。
木戸孝允というよりも桂小五郎の名で知られている長州藩士で、幕末の尊王攘夷派の中心人物である。
徒歩6分
この辺り一帯が木戸孝允邸の跡であり、この地にて病没している。
現在、京の老舗旅館「石長本館松菊園」の玄関前に【木戸孝允旧邸跡】の石碑が建つ。
木戸孝允というよりも桂小五郎の名で知られている長州藩士で、幕末の尊王攘夷派の中心人物である。
徒歩6分
■ 行願寺(革堂)
木戸孝允の最期の地である竹屋町から通りを西に歩き、河原町通を越して寺町通に出ると、京都御所はすぐそこである。
この通りの東側に「革堂」と呼ばれる行願寺がある。
天台宗の寺院で、西国三十三所観音霊場の十九番札所である。
徒歩1分
この通りの東側に「革堂」と呼ばれる行願寺がある。
天台宗の寺院で、西国三十三所観音霊場の十九番札所である。
徒歩1分
■ 下御霊神社
革堂から北に、通り一つ隔てた処に「下御霊神社」がある。
寺町通に面した東側、寺町通丸太町下ル下御霊前町にあり、赤い鳥居の横の石碑には「府社下御霊神社」と刻まれている。
徒歩6分
寺町通に面した東側、寺町通丸太町下ル下御霊前町にあり、赤い鳥居の横の石碑には「府社下御霊神社」と刻まれている。
徒歩6分
徒歩1分
■ 女紅場跡
旧京都中央電話局上分局の建物の前、丸太町橋西詰に「女紅場跡」の石碑が建つ。
徒歩2分
徒歩2分
■ 頼山陽山紫水明処
東三本木通丸太町上ルの鴨川に面した所に、瀟洒な藁葺きの建物が建つ。
徒歩3分
徒歩3分
■ 河原町丸太町(バス停)