幕末の息吹|洛中界隈
幕末を偲び、四条から三条まで来ると高瀬川に掛る、三条小橋がある。
この畔に、新選組を一躍有名にした、池田屋騒動の池田屋があった所である。
今回は三条小橋から御池橋にかけて、幕末の息吹を感じてみようと思う。
アクセス
京都駅から
▼「A1」乗り場から5系統、または「A2」乗り場から4・17・205系統で、
『河原町三条』下車(所要13〜20分)
三条小橋から御池橋までを歩く
■ 河原町三条(バス停)
徒歩3分
■ 池田屋騒動の跡
河原町三条を東に入ってすぐのところに、新選組を一躍有名にした池田屋騒動があった池田屋の跡がある。
現在の景色からは、とても100数十年前に、凄惨な切りむすびがあったとは思えない。
唯、その昔を偲ぶかのように、石碑が一つ静かに建っているのみである。
徒歩2分
現在の景色からは、とても100数十年前に、凄惨な切りむすびがあったとは思えない。
唯、その昔を偲ぶかのように、石碑が一つ静かに建っているのみである。
徒歩2分
河原町三条を下ル一筋目、通称、龍馬通りを東に入ると、龍馬が京で定宿としていた酢屋というお店にたどり着く。
酢屋という屋号からは、お酢を扱っているような感じがするのだが、創業は享保6年(1721)で現在まで280年続く、れっきとした材木商なのである。
酢屋という屋号からは、お酢を扱っているような感じがするのだが、創業は享保6年(1721)で現在まで280年続く、れっきとした材木商なのである。
■ 五之舟入
龍馬はこの酢屋では、坂本龍馬ではなく本家の苗字である才谷をとって、才谷梅次郎となのっていて、酢屋の人達からは「才谷はん」と呼ばれていたという。
二階の表西側の部屋に住んでいたといい、品格子の間から龍馬さんは、向かいの五之舟入にむけてピストルを撃っていたという、現在ではすぐに警察が飛んできて捕まるようなことをしていたと云う。
その舟入の跡が五之舟入で、最近(2009年11月)にその跡である、南大黒橋の東詰北側に石碑が建てられたのである。
近江屋で難に遭う寸前までここに住んでいたといい、もし慶応3年をここで過ごしていたら龍馬さんも慎太郎さんも悲運には遭わずにすんだのではないだろうかと、「歴史のif」を想像してみるのである。
徒歩2分
二階の表西側の部屋に住んでいたといい、品格子の間から龍馬さんは、向かいの五之舟入にむけてピストルを撃っていたという、現在ではすぐに警察が飛んできて捕まるようなことをしていたと云う。
その舟入の跡が五之舟入で、最近(2009年11月)にその跡である、南大黒橋の東詰北側に石碑が建てられたのである。
近江屋で難に遭う寸前までここに住んでいたといい、もし慶応3年をここで過ごしていたら龍馬さんも慎太郎さんも悲運には遭わずにすんだのではないだろうかと、「歴史のif」を想像してみるのである。
徒歩2分
■ 瑞泉寺
幕末からさらに歴史を遡ることになるが、三条木屋町通の角にこの寺はある。
徒歩1分
徒歩1分
■ 三条大橋
■ 弥次さん喜多さんの像
三条大橋の西側には、十扁舎一九の弥次さん喜多さんの像が建っている。
江戸を出て東海道を二人で旅をし京の三条までの出来事を面白可笑しく綴ったものであるが、その旅の終りの三条大橋の袂に二人の像が道中の安全を祈るかのように建っている。
江戸を出て東海道を二人で旅をし京の三条までの出来事を面白可笑しく綴ったものであるが、その旅の終りの三条大橋の袂に二人の像が道中の安全を祈るかのように建っている。
三条大橋の東側には高山彦九郎の皇居を拝すの像がある。
■ 鴨川納涼床
5月1日から9月30日までの間、暑い京都の夏を少しでも涼しく過ごそうと、鴨川納涼床が始まる。
床の由来は、豊臣の頃に京の商人が鴨川の河原に床机を持ち出して、遠来の客を涼をとりながらもてなしたことに始まるとされている。
鴨川の二条通から五条通までの間のみそそぎ川(鴨川の本流でなく、横を流れる鴨川の分流)の上に床を設け、京料理の店が軒を連ねている。
これらの店は流石にリーズナブルな価格でとはいかないが、夏の京都の一風物として一度味わってみるのもいいのではないかと思うのである。
特に、暑い暑い夏の夜などがお奨めである。
徒歩3分(三条大橋から)
床の由来は、豊臣の頃に京の商人が鴨川の河原に床机を持ち出して、遠来の客を涼をとりながらもてなしたことに始まるとされている。
鴨川の二条通から五条通までの間のみそそぎ川(鴨川の本流でなく、横を流れる鴨川の分流)の上に床を設け、京料理の店が軒を連ねている。
これらの店は流石にリーズナブルな価格でとはいかないが、夏の京都の一風物として一度味わってみるのもいいのではないかと思うのである。
特に、暑い暑い夏の夜などがお奨めである。
徒歩3分(三条大橋から)
■ 先斗町歌舞練場
三条大橋から南を眺めると、五花街の一つである先斗町の歌舞練場が見える。
■ 先斗町
鴨川と高瀬川(木屋町通)に挟まれた、三条通一筋南から四条通までの小さな路地が先斗町である。
はんなりと華やいだ風情があり、江戸時代からの花街といわれ全国的にもよく知られている。
特に、富士の高嶺に降る雪も京都先斗町に降る雪も・・・と歌われた「お座敷小唄」はお座敷ソングの定番となっている。
もともと、この地は鴨川の中洲であったものを埋め立てて、三条通の南一筋目から四条までの600mの間に町家ができ、正徳2年(1712)に茶屋、旅籠などで茶立ての女子を置くことが許されてから、京の花街として栄え現在に至っている。
先斗町の名は、町家の総てが川の西側に建ち、先にばかり集まったことで先斗町と呼ばれたとも、ポルトガル語のPONT(先、岬)の発音からとも言われているが、先斗町とはいかにも花街らしい響きを持った言葉で、上手く名付けたものだと感心するのである。
徒歩3分(歌舞練場から)
はんなりと華やいだ風情があり、江戸時代からの花街といわれ全国的にもよく知られている。
特に、富士の高嶺に降る雪も京都先斗町に降る雪も・・・と歌われた「お座敷小唄」はお座敷ソングの定番となっている。
もともと、この地は鴨川の中洲であったものを埋め立てて、三条通の南一筋目から四条までの600mの間に町家ができ、正徳2年(1712)に茶屋、旅籠などで茶立ての女子を置くことが許されてから、京の花街として栄え現在に至っている。
先斗町の名は、町家の総てが川の西側に建ち、先にばかり集まったことで先斗町と呼ばれたとも、ポルトガル語のPONT(先、岬)の発音からとも言われているが、先斗町とはいかにも花街らしい響きを持った言葉で、上手く名付けたものだと感心するのである。
徒歩3分(歌舞練場から)
■ 吉村寅太郎寓居跡
木屋町三条上ル三十五番地路地にある、吉村寅太郎の京での住い跡である。
■ 武市瑞山寓居跡
吉村寅太郎の住いした処のすぐ横の木屋町三条上ルの料亭「金茶寮」のある場所に武市瑞山が住んでいた。
徒歩3分
徒歩3分
■ 加賀藩邸跡
高瀬川の西側、河原町通にかけて、江戸の初期に加賀藩邸が置かれた。
加賀藩は百二万七千石で前田家が藩主で、豊臣の時代に活躍をしたが、幕末の動乱期には活躍の場は殆どなかった。
その加賀藩邸跡の石碑が、木屋町御池の高瀬川に架かる御池橋のところに建っている。
徒歩1分
加賀藩は百二万七千石で前田家が藩主で、豊臣の時代に活躍をしたが、幕末の動乱期には活躍の場は殆どなかった。
その加賀藩邸跡の石碑が、木屋町御池の高瀬川に架かる御池橋のところに建っている。
徒歩1分
■ 夏目漱石の句碑
夏目漱石の句碑が鴨川の御池大橋のほとりに建っている。
徒歩4分
徒歩4分
■ 本能寺
河原町御池の南西角にあるのが本能寺。寺町通と河原町通に面しているのだが、寺町通が正面、河原町通の方が裏門となる。
河原町からの入口は、建物と建物の間を抜けて本能寺の境内に入る形となり、うっかりすると見過ごしてしまいそうな所である。
徒歩3分
河原町からの入口は、建物と建物の間を抜けて本能寺の境内に入る形となり、うっかりすると見過ごしてしまいそうな所である。
徒歩3分
■ 河原町三条(バス停)